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アイデンティティについて

仕事は堅調である。




まったくもって

収入もスケジュールも安定しねえが

生まれてこの方

勤労意欲や情緒はおろか

社会的地位も信用も

身の安全と主義思想すら

総じて不安定な身空では

一切合財が纏めて安定していない

現状こそがデフォなので

精神的にァ、まま自適。







不言実行を座右の銘とする小生が

これから書くぜとコトワッテ

勝手に絶筆してから

果たして如何ほどの年月が経過したのか

皆目見当すらつかないが

久々に筆をとった事に

さしたる理由は当然ねえ。









いつだって

人は

いつか筆をとる時のため

生きて

明日も生きていくのだ。






お題はそんな

我々のアイデンティティに纏わる

一考に関する

恒例の不定期世迷い事である。









自己の同一性=アイデンティティというやつを

平たく砕いて格式をなくすと

きっとそれは

人が

「 やあやあ、我こそは 」と名乗りをあげる時

「 すっこんでろ、腐れ野郎!」と啖呵を切る時

その人の脳髄の真芯を走る

唯一の確信、

または一千の狂気になる。








つまるところ、

それは

人が

その魂を

剥き出しに生きる時

てめえを背開きにして

やおら脳髄を引きずり出すための

出刃ァそのものと言っていい。







必然、切れない出羽ァ無用である。

しかるに

自己同一性とは

人が生き死にの際にだけ使う

唯一絶対である道具の

切れ味そのものを指すはずだ。




結果として

人間というやつは

本気で生きている奴ほど

これの実用性に拘ることになる。





この場合

拘るとは、

苦しむことと同義である事を

賢明な読者諸兄は既にご存知のことと思う。





なお

久々に和魂要塞を読む方のため

念のため補足しておくと

当ブログにおける

「本気で生きる」とは

鉄鎖と軛を皿ごと呪って

反吐を吐きながら泥水を糧に

敵意まるだしで膝行する気概であり

狂人賛歌万歳な筆者の妄想なので

原則として右から左で構わない。








大切なのは

俺達が

どうしてコイツの切れ味を

鍛え

磨いて

磨いて磨いていけるか

この一点に尽きる。















鉄は熱いうちに叩けと

先人は言う。





先人にしては至言である。





若い時分に

出刃がまさに

形作られるべきその時期に

身の上のいう金床と

世界という名の鉄槌の間で

サンドイッチマン宜しく鍛えられることなく

産地を唯一の売りにして

市場にでてきた

数打ちのナマクラなんぞ

その後1000年

自称名人が心血を注いで磨いたところで

すぐに錆びるし容易に折れる。






幸い

狂人の多くは

世のマジョリティーにとって

無聊を紛らわす為の

迫害・弾圧・搾取・蹂躙の絶好対象だので

我々は若い時分に

ごくごく稀に必要なだけ

ほとんどの場合は圧倒的必要以上に

世間の悪意に揉まれ叩かれ陵辱され

ほどよく鍛えられかつ

性根は芸術的曲線を描きつつ

捩れた大人になっていく。



そうやって

大人になっていった時

ちょうどその頃

大人になるかならぬ頃

兎にも角にも俺達は

てめえ一人を刺身にするには

申し分のない出刃を飲んで

社会に殴り込みをかけられた。







難しいのは「その後」だ。






切れ味を維持するのは

大人になった「その後」からのほうが

ずっと難度が増す。





それはなんというか

虐殺ゲーム=戦国無双でいうところの

「やさしい」と「地獄」ほどの違いである。





初期状態のまま

生きて死ぬ我々生の人間にとって

「地獄」モードでの無双プレイには

にエンターテイメント性は絶無である。






だからほとんどの狂人が

道の途中で

エンターテイメントに重きを置いて

狂うのをやめ

自他共につまんない人間になっちまう。





小生は

それを恐れながら

15歳から生きていた。




恐怖したのは

てめえを

背開きにする出刃が錆び付いた

後に続く人生だった。





自分がどんな人間か

確かめ続けて生きられないなら

生きる動機がないことだけが

唯一信じられる絶対だったからだ。




自分ですら

どこの誰かわからない奴に

ひょいと預けて生きるには

てめえの命の価値は

あまりに軽すぎたのである。




確かめ続けなければ

生きていく

申し訳が立てられなかった。








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・














・・・・・・書いてみて

初めて気が付いたが

小生はどうやら

15歳からこっち17年くらい

てめえの原罪性に関して

非常な脅迫観念を抱いていた模様である。








まぁ

半ば育児放棄され

犬に育てられた手前の背景とか鑑みるに

毎週盛大に犬猫を虐殺している

保健所運営する種族に帰属し

あまつさえその繁栄による幸福の享受を貪っている身上を

改めて察すれば

これくらいの葛藤は

想定の範囲内というところだが

当該駄文作成途上で

たった今発見されてしまった

「犬」という

小生のアイデンティティーについては

この際「気が付かなかった」事にし

話を戻さねば

断筆を余儀なくされることは明白なので

ここはひとつ

例によって

なかったことにして進めることを宣言する。



いいか凡百、

一旦「「犬」のことは忘れろ。



あいつらは

1週間くらいは飯をやらなくても大丈夫だ。

飢えて人を襲うだけだ。



死ぬのはたったの1回だ。


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さて

問題は「確かめる」というこの行為の本質にある。



アイデンティティーに関する人の懊悩を

いっそう複雑にしているものの正体は(・・・こんがらがった奴は読み直せ)

きっとこういうことである。




「確かめる」という行為にはもれなく「危険」が付属し

その「危険」をねじ伏せるだけの「運」と「実力」が不足した場合には

実際多くのものが失われるというペナルティがあるが

まぁ

生きるも死ぬもしゃらくさいのが実際なので

その辺はぶっちゃけ問題でない。

それはもう前提であって上等である。




何より全然上等でないのは

食らうペナルティが

同じパーティの面々に

以上の規模と期間とで降りかかるという

銀河系ローカルルールにある。







小生が

結婚を恐れていたのは

正にこれが原因であったし

子作りを禁忌としていたのも

やっぱりこれが理由だった。





4年前(たしか)に結婚し

2010年現在

継続して結婚関係が成立しているのは

妻が本質的に自分と同じ神経系の

江戸原理主義者という狂人だったからである。







我々夫婦は

その出会いとは無関係に

自分の命など羽より軽いと断じ

それぞれの理念に殉じて生きてきた

双翼主義者(反動浪漫)と

江戸原理主義者(隠れ任侠)なので

互いの命運については

互いに互いの勝手と了解している為

互いの出刃の研磨に支障は出ず

二人だけなら原則として

互いに互いの勝手で

同時に死ね

アイデンティティーは極めて容易く守られた。



2人だけの生活が続いていれば

それはきっといつまでも

喜びとと楽しみは2倍

悲しみと辛いのは半分

死ぬ機会は数倍という

エキサイティングな仕様で

末期ガン的進行速度を保ちつつ

地球の果てに突進していたのは間違いない。





多分小生は

今頃きっと

死んでるか

五体不満足か

脳死状態か

例によって気分は決死隊のいずれかである。







つまりは

結婚によっては

我々のアイデンティティーは

あんまし揺るがなかったわけだ。





崖っぷちという座標で輝く命には

結婚によって齎された

いささかも陰りがなかったのである。





しかしながら

子供ができたのは

いわんや物のはずみであり

今も「いる」のは

我々の決断の結果である。





端的に言って

我々のアイデンティティを揺さぶったのは

三号機・すなわち息子の誕生それだけだった。




誤謬があるのは承知だが

クラゲの様に突如として振って沸き

コウノトリの誤爆よろしく我が身に降りかかってきた

父と母という「新たなるアイデンティティ」は

我々夫婦にとって

裸の原始人が

「服を着て早く学校にいけ。」と

これまで足を向けてきた一神教の腐れ神に

有無を言わさず決め付けられる

強制進化宣告同然の

無法松も裸足で逃げ出す

人生のカンブリアである。。





それでもパニックに襲われなかった理由は

二人とも

「何者かの子供」という生き物が

容易に

その何者かの犠牲者になることを

体験的に知っていたからだろうと思う。





もはや

勝手に生きて

勝手に死ぬという

これまでの半生をかけて

それぞれが勝手を捨てて守ってきた

手前勝手な生き方は

金輪際許されない。






捨てよう、出刃を。





小生と妻は

互いが半生をかけて

研ぎ続けた来た出刃を

たぶん1回捨てた。





双翼主義と金釘文字で銘打たれた

ぶっ細工な長ドスは

中越で刃こぼれしたまま

錆びて土に還ったのだと

てめえでめてに言い聞かせた。






自分は父になるのだからと。




二人して

別人になったんである。





そして4年が経とうとしている。






和魂要塞がはじまって6年?前後、

これは小生が

文章を書き始めた年譜と等しく

振り返れば

小生は

振り返れない進行形のテーマを書くのは

へたくそな上

極力どうも避けてきている。





要するに

今筆をとっているのは

きっと用意ができたからである。





父親としてのアイデンティティーを確立するのに

4年かかった計算になる。





モラトリアムのまま生きるには

小生も妻も

既に年をとり過ぎ

その分だけ

新たな出刃を研ぐ日々に

迷いの深みが見えなかった。





どうやって

自分を磨けばいいのか

てんでわからない日々が

子育てにはある。





それは人によっては

仕事であったり

別離であったり

出会いであったりするだろう。





人の親となる変化を受け入れる事と

人の親への羽化に挑む事は

まったく違うということを

突きつけられながら

サナギの中で

出刃を同時に磨くというのが

我ら夫婦の4年であったと

今にして思う。







少年が青年へと変わる時間と

同じ時をかけ

ようやく手にした出刃は

いま身を裂けば

ようやくにして

「親」という自覚に届くだけの強靭さを

備えるに至った。






やっと血の出る刃になった。







ようやくだ。









ふと

ここに至って気づくのは

アイデンティティーというやつが

ダマスカス鋼に良く似ているということである。





捨てたはずの出刃のかけらは

どうしたものか

ちゃぁんと手前の奥に残っていて

サナギの中で鍛えた新たな刃には

古刀の陰りが

見事なまでに層を成して波打っている。









帰ってきやがったな。






待ち焦がれたぜ。

























アイデンティティーは、確かに揺らぐ。





けれどもそれは

たとえ捨てたつもりでも

ひとつの戦いが終わった後

必ず姿を変えて戻ってくるのだ。






必ずである。








人生は長く

一筋縄ではいかず

わけわからん時期も

晩度だ。













でもよ、同胞、大丈夫だぜ。









あの頃のお前は

決して死んじゃあいねえんだ。






例えお前が

捨てたつもりであったとしても

あいつはいつだって

お前の中に残っている。






いつか

新しい出刃を磨き終わったとき

ひとつの時期が過ぎたとき

かならず「お前」は

お前の元に帰ってくるのだ。







人は

1000年を生きる大樹のように

年輪を刻むようには育たない。





人の人生は

これまでという材料で

死ぬまで刃物を打ち続け

鍛え続ける

鍛冶場みてえなものである。





磨こうにも

そもそも刃物がないまんま

作りかけのダンビラを引っさげて

鍛冶場から喧嘩にいかなきゃならない場面も茶飯事だ。






自信なんぞと無縁のわけは

実際のところこれなのだ。








たったひとつだけ確かなことは


どんな刃物を打つにせよ

どんな刃物で喧嘩をするにせよ

玉鋼は

いつも自前という真実だ。






鍛えた先には必ずかつての自分がいる。





取り戻せない昨日など、

掴むことができない明日など、

世界にありはしないのだ。
by 201V1 | 2010-05-09 04:00 | カテゴライズ前・生ログ
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