生きるの死ぬの・死生観



えー、りりこリクエストの「 出会いと別れ 」ですが、

「 出会い 」については以前やった気がする。

「 知人の中に踏み込んで、再び、三度、人は出会う 」とかなんとか、

言った記憶が薄らある。(いい加減万歳

触れたことのねえ「 別れ」については紙面を別に割くとして、

さしあたって今回は、「 生き死に 」に関して考えてみる。





自身の死生観については、これまでも俺ぁたびたび、小出しにしてきた。

「 明日死ぬかもしれないぜ。 」とか、

「 貪り食われて死ぬ生き物の方が圧倒的に多いんだ。 」とか

「 そんな人生終わりにしちまえ。 」とか

「 永遠に生きるつもりかよ。」とか、折を見ては記事に出刃をぶっ込んでいる。




まぁ、いうなれば、勢い仕掛けてしまった地雷みたいな感じである。

たまに踏んだ人が偉い目にあっているが、

「 言霊ランドマイン 」は和魂要塞の真骨頂といえるので考慮なんてしねえ。

是非覚悟して読んで頂きたい。( どんなブログですか?





で、だ。

まず「 死 」だが、

御存知の通り、俺ぁこれまで何度も死にはぐっている。

「 人生・死にはぐりデパート 」である。(五月蝿い



当人が「 まぁ百太郎がいなかったら死んでいるな 」と思う以前に、

一般的な常識論だと「 普通は死ぬ 」目が何度か出ているが、

持ち前の頑健バディの御蔭か、なぜか入院歴はゼロである。





対向車両にチャリで全速アタックしたり、

走行中のバスから落ちてみたり、

ロータリーを逆走したり、

ブロックで後ろから頭を殴られたり、

猪に跳ねられたり、

教師にリンチにあったり、

裏切りにあって鉄パイプでフクロにされたり、

深夜のアフリカで強盗とランデブーしてしまったり、

マラリアを五回罹患したりと、忙しい身の上だが、どっこい俺ぁ俄然健在である。




鼻が曲がったまんまだったり、

顎がズレたまんまだったり、

股関節がズレたまんまだったり、

顔面の縫い目が累計30を超えていたり、

肝臓がオシャカだったり、

精巣が焼き付いてもう駄目だったりと、

いろいろガタは来ているが、

既に人生の3割くらい終了している点を鑑みると、

こいつは丁度いい按配の壊れ具合といえる。

この調子なら、くたばる頃には上手いこと廃人になってるハズだ。

往生ってなあ、体がぶっ壊れて迎えてナンボの終点である。

死ぬときはポンコツで息が止まるスタイルがいい。




こういう滅茶苦茶な「 憂き目 」が出続けるサイコロを握らされて生まれると、

自然、人間て奴ぁ、矛盾した2つの確信を持つに至る。




「 必ずいつか、免れられぬ死が訪れる 」ってのと、

「 俺ぁ熊に襲われても多分死なぬ 」という2つの相反する想いである。




~ 死神を騙すのは赤子の手を捻るより容易い十八番だが、いつか騙しきれねえ利口な奴がきっと来る。 ~




それは病かも知れぬし、老いかもしれん。

事故かもしれんし、殺しかもしれん。

大抵の「 お迎え 」は片手間で返り討ちにする自信があるが、

中にゃあ、手強い野郎もいるはずだ。

矢継ぎ早に立て続けに強襲されては、

流石の俺も、いつかは必ず、懐に出刃をぶち込まれる。



~ 死神を騙すのは赤子の手を捻るより容易い十八番だが、いつか騙しきれねえ利口な奴がきっと来る。 ~




そういう感慨の中で生きていると、結論的には当然、

~ 生きるの死ぬのしゃらくせえ ~という話になってくる。





「 死 」から出発する時、

俺ぁ、生きてる終わりに「 死 」が来るなどとはカケラも思っていない。

連中は、時と場所を選ばずに、こちらの準備も関係なしに、毎度唐突に襲ってくる。

「 あたしが死です 」と名乗る時もあれば、

「 あたしが死かも知れません 」とかナメた啖呵をきりやがる場合もある。

老衰だろうが事故だろうが同じである。

それはいつも、「 生きてる途中 」でやって来る。

俺達ぁ、毎日、明日かも知れない中に、死ぬ瞬間まで生きている。





「 死 」からスタートする「 死生観 」は、せいぜいがここまでしかたどり着けない。

これぁ、真実にゃあ程遠い。

記事にするのも憚られる、単なるつまんねえ現実である。






「 死生観 」について考える時、焦点を当てるべきなのは「 生 」であり、

「 生きる 」ってなぁ、どういうことか。という発想なのだ。




俺ぁ、散々考えた挙句、生きるってなあ、「 命を振るう 」ことだと思っている。







「 何者 」かに「 必要 」とされるものの全ては、

実はそれが「 必要とされなくなること 」とを「 何者 」かに常に望まれている。




ヤカンは「 水をお湯に変えるため 」に「 必要 」とされいるが、

それは実際には「 お湯が必要 」だからであって、ヤカン自体には意味がない。

また「 お湯 」にしても、「 カップめんが出来上がっている 」ならばいらないんであって、

「 お湯 」自体は必要ではない。

「 カップめん 」も要請されているのは、満腹と味覚の満足であって、

「 カップめん 」自体は必要ない。

そして満腹と味覚も「 飢え 」ていなければ、そもそもいらない。

そして土台「 飢え 」などハナからいらないのである。

全ての「 必要 」とされているものは、「 必要とされなくなること 」を願われている。





これは「 命を振るう 」にしても同じである。

それはいつも、「 必要とされなくなるため 」に振るわれるのだ。





「 世界から悲しみを失くす 」ために「 振るわれる命 」が目指すものは、

「 自身が必要とされなくなる幸福な世界 」である。





人は、死ぬために、命を振るう。

生きることと死ぬことは、同義なのだ。



俺ぁ実のところをいうと、「 生きるの死ぬの 」を別個に考えることを、

ずいぶん前にやめちまってる。

2つは「 同じ 」ものだからだ。






~武士道とは死ぬことと見つけたり。~



この言葉の意味は、

「 人は己が必要とされなくなる世界を勝ち取る為に生きる 」という真実を指す言葉である。




恒久的な平和のために戦う職業軍人の姿が、セメントに「 生きる 」ということなのだ。





人は、死ぬために生まれ、生きる。

必要とされなくなるために、その命を振るう。




そう思う俺ぁ、そうやって、生きて、死ぬ。



世界に足りないパーツになる。
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by 201V1 | 2004-09-27 20:52 | カテゴライズ前・生ログ
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