「ほっ」と。キャンペーン
触媒としての何か
触媒としての作用の宿る文章に
出会った事があるかないかは、
他の様々な巡り合わせ以上の
目覚めを与えてくれる。

私には、ある。

そんな経験が。

訪れた幸運によって開いた目で
かつての自分が埋め立てて
慌てて隠し込んだ
真っ暗い井戸の蓋をこじ開けて
中身をちゃんと確かめようとするかどうかは
それぞれの選択だけど
どちらを選ぶかのこのそれぞれは
当人の意思や心じゃなくて
ただ時による
人の理の外で起きる出来事だと思う。

つまりはそれは、
触媒としての作用が一度働いた時、
蓋を開ける開けないは
本人の意思とは関係なくやってくるという事だ。

蓋を開ける機会が
永遠に訪れない人もいるし
望まないのに開けざるを得ない局面に
度々出会う人もいるだろう。

幾度か蓋を開けて
中身を確かめる体験を経て思うのは
穴の中から引っ張り出した後の始末は
実のところはさして重要ではなくて
片付けようとする意思にこそ
別の価値あるものを掴んで帰ってくる
機会が隠されているという事実に
実は大きな意味があるという大事だったりする。

蓋を開けて穴の中身に手を伸ばし
その結果得られる「穴の底」を見たという経験によって
「その底には何もなかった」とことを
知って送る10年と
知らずに送る10年とでは
見える世界の
過去と今と未来の解像感は
確かに変わる。


「なにもない底」が
それにタッチして帰ってきた者に
なんの祝いか授けてくれるものは
きっと人に応じて千差万別なんだろうけど
私が貰ったお土産は
人の手の届く世界と
人の手で包める世界は
目で見えるよりずっと狭く
ずっと深いという
この先を生きる道標だった。

道標は静かに告げる。

手から零れ落ちるものを
選択し続けるのが人生で
手の中に掴むことを選ばなかったものが
失われることを嘆くのは
今その手の中にあるものを
握り潰したいならやればいい。

全能とはかけ離れた不完全性を本質として
この世に生を受ける僕たちには
全てを手の中に包み
生きていくことは出来ないわけで
仮にそれを行えると信じるとき
人は足元では誰を踏みにじりながら
歩くことになる。

道標は、
それぞれの囚われから
その人を放つ為に在り
それが故にその標識は
見るもの望むものによって姿を変える。

道標すら符合しないまま、
僕たちは同じ道を行く。

なればこそ、足掻くだけの価値はある。


触媒を通じて、10年間そう信じて続けることができた。


触媒としての何かの正体は、
10年を経た今もはっきりしない。

ただ1つ確かなことは
人は10年を経て尚不確かなものでさえ
確かに信じることができるということで
それは時に文章との出会いによって始まる。

人が筆をとる価値は、
文章そのものではなく
それが果たす触媒としての作用が
その人にもたらす
道標を介した継続的効果にこそあるのだ。




筆跡は、残る。

それを読んだ人の心より、その読んだ人の歩みにこそ。

それを書いた人の歩みより、その書いた人の心にこそ。
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by 201V1 | 2013-12-24 02:23
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