終幕・ボランティアワーク

 近日中に現地発・ブログにおいても発表さるる事と思うが、去る5月19日付で、和魂は中越元気村の副代表を降り、野に下った。

 本来の一匹狼に戻った次第である。

 ことの経緯は、ヨコの会の非公開記事に譲るとして、190日間の間、ひとつの災害支援団体の本部を預かり指揮・編成に携わった者として、ざっくばらんに所見を述べていこうと思う。


 「 何 」について語るかによって、文章は際限なく色彩を変え、行間に込められた想いは表情を変化させることになる。

 問題は、終幕の文章でありながら、綴られるはじめの文章となるこの記事において、なにを選ぶかであろう。

 俺ぁあえて、「 人間 」に関して述べようと思う。




 土台どこまで掘り下げようと、

 薄っぺらなものにしかならないボランティア論など、

 振りかざす奴はタコである。

 胡散くせえ。




 誰かが立ち上がろうとするときに、手を貸すことに、理屈なんざ要るわけがねえのだ。






























































 























 さて






 人を図る尺度は、いく通りもある。

 


 
 俺ぁ昔、自分の尺度で他人を観ていた。





 極端に狭い尺度である。




 中越において、自分がもっとも変わった点は、ここであろう。




 俺ぁ今、自分が観ようとする対象が、

 何をどう、

 どんな尺度で観て、
 
 どんな経緯で、

 どんな帰結に達するのかで、

 彼や彼女を、

 観ようとするようなった。





 自分の定規を持ち出すのは、その後で十分に間に合うことを、知った。







 その上で、

 骨身に染みたのが、

 人間の大勢が、

 「 観る 」ことに、

 驚くほど力を注がないという事実である。





 俺ぁよく、「 予定調和 」という言葉を使うが、

 これをありていに言うと、

 「 可能性として予測できる範囲内に起こる展開 」って奴であり、

 ようするに「 先見 」である。



 ぶっちゃけ、

 俺ぁこの半年の間、

 自身が預かった団体を、

 文字通り、

 最初から最後まで「 おもうまま 」に転がせてきたわけだが、

 正確を期すとそれは「 何から何まで期待通り 」という意味ではなく、

 「 連続する予定調和の調整に、そのつど成功してきた 」という意味のそれである。

 「 先見 」を乗りこなすことさえ出来れば、人は必ず、思い通りに生きられる。






 天気予報が当たらない理由に、

 バタフライ効果ってのが挙げられるが、

 人間の集団の行動予測もまた、

 天気予報と同様、

 ある種の限界がある。

 一点買いでは勝負にならない。







 しかしながら、
 
 人間て奴は、

 頭の中が複雑な分小回りがきかねえくせに、

 長い年月をかけて心の形がひん曲がっているので

 単純で真っ直ぐな競走馬より

 余程容易く予測がつく。

 人間は、ある幅の中でしか、自分の行動を選べない。

 きわめて不自由な生き物だ。

 



 その意味で、 

 顔の見える集団の中で、

 因果律をその手に掴み、

 天下の形勢を意のままにするのは、

 ぶっちゃけ赤子の手を捻るようなもんである。






 すべては、想定される出来事でしかなく、予定された調和でしかない。

 幅の中の一点が顕在化するだけである。

 ちゃんと「 観る 」ことに力を注げば、先は必ず読めてくる。





 問題なのは「 観る 」事に必要なエネルギーの消費を、多くの人が嫌がる点である。






 「 観る 」という行為は、「 相手そのものになる 」という意味である。

 集団の向かう方向をコントロールしたいならば、

 その集団に帰属する個体それぞれに「 成り 」「 考え 」「 振舞う 」ことが必要になる。

 頭の中に、相手を飼えなければ、その馬鹿の動きの次は見て取れない。




 それはとんでもなく、

 時に不快で、

 気味の悪い、

 汚濁への没入を意味する。




 気骨の髄質まで啜って、

 それでも尚、

 旨い男や女なんざ、

 10000人に一人である。

 殆ど例外なく人は、

 どこかヌルかったり痛んでいたりして、

 骨までしゃぶりたいなんて相手は、

 生涯を通じて会えるかどうか疑わしい。

 部分部分が絶品の輩は少なからずいる。

 しかしながら、それでも髄までしゃぶれば吐き気を催すのが他人の肉だ。





 だども、

 食わねばならんのだよ。

 思い通りに生きたければ。





 食わず嫌いの悉くは、

 先見のスキルを持たない人々だった。

 


 先見のスキルを持たない人々の悉くは、

 食わず嫌いの人々だった。




 吐き出す事が出来ることを知っている人間は、

 よく食べ、

 味を知り、

 そのケダモンの習性をだけを覚えて、

 先を読む力を備えていた。



 先を読む力を備えた人間だけが、

 自決する意識を獲得していた。

 筋の何たるかを知っていた。

 足掻く力を持っていた。

 自身の力で生き抜き、道を切り開く意思を育てていた。




 獣肉を食むことを忌諱していた者達の悉くは、

 惰性の中でしか生きていけなかった。

 局面の中でしか右往左往することができず、

 流れを自身で作ることができなかった。




 このことは、大きな発見だったように思う。





 よく観ようとせずに、生きてきた人間の備える力は、芥のようなものでしかない。

 観ようとする行為は、とても辛い行為だが、

 それを選択しなければ、人は自決能力を獲得できずに生涯を終える。

 ゾッとするぜ。そんなのは。





 自分の中にある尊いものは、

 ケダモノの血肉を啜ったところで、

 あたら穢れるような代物ではないことを、

 人はなかなか気がつかない。



 


 歯がゆかったぜ。

 半年間。






 今日思うのは、

 人の魂の質量を決めるのはきっと、

 そいつが泣きながら口の中に叩き込んできた、

 泥まみれの畜生の血肉の量だということである。

 


 そいつがどれだけ、

 吐き気と戦いながら、

 明日のために、

 腐臭のする肉を噛んできたかは、

 彼の生き方を観ればおのずと知れる。




 くそみたいな世界と、

 本当に戦える奴らってのは、

 そういう、泥の中のプレデター達だ。




 
 「 どういう人間か 」




 観ようとしようぜ。



 それがどんなに腐っていても。



 




 吐き出せるさ。

 必ず。




 








 自由にために。







 この世界の明日のために。






 忘れ去られつつある、正義のために。







 






 
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by 201V1 | 2005-05-25 02:05 | カテゴライズ前・生ログ
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