感と観

 さてさて、世間様は選挙で大揺れ。

 天下の趨勢が、圧倒的多数の愚者による投票で決定する、民主主義の破廉恥。

 天下国家を考えた事もない連中が繋いでいく絶望的な衆愚政治、万歳。

 「 生きている 」という理由だけで、

 凡愚どもに国政に参加する権利を委ねる悪夢の時代。

 「 死んでいる 」というだけで、

 この国の為に命を散らせた数多の英霊の想いを、

 一顧だにしようとしない唾棄すべき時代。

 俺たちは、そういう時代に生きている。



 

 選挙に行くぐらいなら、俺ぁテロに走る。

 



 糞でもくらえ。永田町。





 というわけで、俺ぁ今もって真性のアナーキストである。

 テロは現状効果的でないという見地からのみ、それを実行に移さないだけだ。

 暗殺で時代が変わるなら、そんな簡単な話はねえ。

 話はねえんだぜ?テロリスト諸君。





 で、今回のお話は、

 やがて行われる例によってふざけ極まる乱暴な選挙を引き合いに、

 アナーキストによる責任観と責任感についての、

 所見で推して参ることにする。



 総員、

 耳の穴かっぽじって傾聴し、

 「 責任 」に関する所見を深めよ。



 
 すべての言葉は、

 再定義されるための刻を、

 魂の深層で待っている。




 
 宿主を、

 幾度も生まれ変わらせる為に。


























 責任とは、何か。

 それは、責めを果たす気概を言う。




 人は、

 いつ何時、

 何ひとつとして、

 背負うべき責任を有しない。

 無限の自由がある。

 



 人は、

 すべからく人は、

 この星の未来に関わる全ての危機と、

 今この時世界で行われている全ての暴虐と理不尽に対し、

 命を尽くしてその根絶にあたる責任を、

 息が詰まり、

 鼓動が止むまで、

 負っている。

 無限の責任を、人は、すべからく負う。







 両者が真実であり、

 人類史を動かしてきた全ての事件の根底には、

 責任と自由の間で命の火花を巡らせあう、

 人間の叫びと呻きがあった。






 彼らが、

 果たそうした責任の範疇は、

 時に人の領分を越え、

 時に獣より劣った。

 これらの差異を生むのはなにか?

 それは、

 責任観と責任感である。





 「 感じる 」のは勝手である。

 猿でもできる。

 

 「 感じる 」のは自由である。

 羽虫が何を感じようが天候は変わらない。




 勝手に感じて、勝手に釈迦の手のひらで踊り、

 「 果たした 」と

 感じることの生暖かさに浸ればいい。





 人の真価が問われるのは、

 責任感ではない。

 そんな薄っぺらなもので人が測られてたまるか。




 その人間の、

 世界に対する存在価値を決定するのは、

 責任感ではなく、

 責任観である。




 確固たる責任観という基盤なくして、人は真の責任感など有する事は出来ない。





 責任観を定義せよ。

 



 命には、無限の自由と責任がある。




 すべてを疑え。




 懐疑的に世界と挑むことでしか、人は責任の範疇を掴めない。




 人が命を尽くしても、果たせることの出来る責任は、極僅かに過ぎない。




 









 責めを果たせ。


 その魂を投じて、負える分だけ、責めを負え。







 万人が、責任観を有しえた時、必ず世界は変わる。

 人それぞれが、

 その魂を投じて、負える分だけの責めを負い、果たせる時代の夜が明けたとき、

 世界は変わる。




 60億の火の玉が責任を果たそうと燃え上がる時、

 この星に、

 初めて朝が訪れる。










 








 繋げよ。

 本当の人の責めを。





 



 祝福に満ちた人生は、完遂される責任とともにある。


 



 




 









 




 






 

 

 




 
 

 



 




 俺ぁ、選挙には行かない。

 この期に及んで、

 安保条約を肯定する如何なる政治政党にも、俺ぁ断じて与さない。

 そーゆー事はな、

 駄法螺どうしでやってくれ。





 


 悪いがそんな茶番に、自分の時間をくれる程、身も魂も歪んじゃいねえ。

 
 

 
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by 201V1 | 2005-09-02 15:01 | カテゴライズ前・生ログ
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