死ぬの生きるのしゃらくせえ

 後日談になりますが、

 講演、

 ブチ上げて参った。




 動員数500.

 ひゃっほう。

 相当の数である。



 
 稼業柄、

 見知らぬ人々の前で、

 好き勝手な寝言を並べるのは、

 まぁ、

 慣れているとはいえ、

 500という、

 軍隊で言えば中隊規模の聴衆を前に、

 一発ブチ上げるのは、

 生涯実に2度目であり、

 滅多なことではないんである。









 前回の、

 生涯初であった中隊規模を相手のパフォーマンスは、

 災害復興支援時代のコンサートにおける、

 舞台監督兼MCというポジションでの、

 火事場のような混雑の中での業務であり、

 ようするに、

 作業に近かった。

 





 如何にして、

 ミュージシャン連中が演奏準備を整えるまでの「 間 」を、

 もたせるかに注力し、

 それに力を尽くす業であり、

 問われたのは、

 小生の「 芸人 」としての資質と根性であり、

 エンターテイナーとしての機能と、

 アジテーターとしての求心力を発揮する

 装置としての役割であった。




 

 今回の講演は、

 それとは完全に性質を異にするものであった。



 

 学生への鼓舞を要請されての静岡入りであったのだ。




 講演の手配師である学校サイドの意図は、

 学生への「 生き方 」の指南であったが、

 小生はこれに関して完全な門外漢である。





 生き方を、

 夢だと、

 仮定するならば、

 小生のそれは、

 自らを検体にした人体実験の途中にあるもので、

 結果はもちろん、

 断定的に語るに耐えるこうだという確証は、

 半生丸ごとをひっくり返しても、

 微塵も発見ができないのが実態であり、

 それをどうこう抜かすのは、

 俺が死んでから、

 どっかの他人が片手間でやる仕事である。

 





 夢を語れというならば、

 高らかに生き方を謳うが、

 先方の要請は、

 生き方そのものについて言及し、

 学生達に活力を与えせしめることであった。

 

 

 生き方を語る。

 不遜だと、

 小生は感じる。





 学校サイドを非難するつもりは毛頭ないが、

 小生の認識では、

 高校生という15歳から18歳くらいの年代は、

 世の大人が思うほど、

 馬鹿ではない。

 様々な任務を課した場合、

 遂行する能力には著しく欠けるのが一般だが、

 経験は浅くとも、

 無駄に年を重ねた大人より、

 余程骨のある手合いは珍しくも無い存在だろう。





 小生は、

 自身が彼らと同じくらいの時に、

 考えていた様々な事柄と、

 向き合っていた世界と、

 感じていた気持ちを、

 今尚、

 鮮やかに思い出すことができる。




 
 世界は、

 醜く、

 汚泥に満ち、

 常に腐臭を放っていて、

 淀んだ空気に満ちていた。

 希望は自分の中にしかなく、

 魂は、

 憎悪で破裂寸前まで膨張しながら、

 赤く赤く燃えていた。

 刺し違えることができるという可能性が、

 自分の全てだった。





 小生が今日、

 世の中を、

 希望的に見られるようになったのは、

 世界が美しいからでも、

 腐敗をやめたからでもない。

 単純に、

 汚泥の海を、

 自らが上手に泳げるようになったからであり、

 泳ぎ続けるに足る価値を、

 存在することに見出している結果に過ぎない。






 その意味で、

 程度の差こそあれ、

 彼ら若者のいる世界は、

 当時小生が棲んでいた世界と、

 その景色は極めて似るに違いないのだ。






 大人よりも遥かに、

 力なき若者達は、

 世界の、

 ありのままの姿を、
 
 その目に焼き付けながら、

 日々を暮らし、

 青春を、

 終わりに向かって、

 つき進んでいる。





 若いということは、

 地獄に等しい。







 大人になるということは、

 地獄との、

 付き合うことを学び、

 地獄で尚、

 笑う術を身に着けることに似るが、

 小生は、

 そんなことは、

 話したくなかった。

 



 

 

 



 話したかぁ、ねえだろう。

 そんな悪夢みてえな話。












 生き方なんぞ、

 そもそもが、

 選べるような代物じゃあねえのだ。







 思い通りに生きることなんぞ、

 誰にもできはしねえ。






 人間は、

 思い通りにならない人生を、

 生きていくのだ。

 奥歯を削りながら。




 生き方なんぞ、

 選べるものか。





















 頭に来たまま、

 講演をするべく、

 静岡に向かった。






 「 生き方の講演を・・・・・ 」

 人の良さそうな先生の言った台詞が、

 耳から離れず、

 苛立ちが頭蓋の中を反射する。






 「 何様のつもりだテメエ 」





 先方に、

 悪意が微塵も無いことを、

 十分に理解しながら、

 腸は、
 
 煮えくり返っていた。





 餓鬼をなめるんじゃあねえ。





 



















 余暇に、

 仕事の合間に、

 静岡への列車の中で、

 何を自分が話せるか、

 語るべきは何なのか、

 考えたが、

 どうにも結論がでなかった。





 答えが出たのは土壇場であり、

 講演15分前の、

 一服の煙草である。
































 「 在り方について話そう。」

 小生は、

 そう、

 思った。



















 小生は、

 断言できる。

 人間は、

 生き方を選べやしねえ。

 それでも、

 在り方は、

 選ぶことができると。

 












 
 





 生涯の中で、

 自分が向き合わねばならない現実の全ては、

 その始まりを、

 我々の手の届かない場所を起点にする。

 不可避の現実・出来事に対し、

 我々は、

 それを起こるか否かという意味において、

 選択する能力を、

 完全に奪われて誕生し、

 生きて死ぬ運命にある。

 すべからくだ。

 




 その意味で我々は、

 運命の奴隷であり、

 更には、

 状態を希求する自我に翻弄されるに至っては、

 魂は恐怖の傀儡に等しい。







 運命に囚われている限りは、

 自我の抱く恐怖に支配されている限りは、

 魂はその真価を発揮し得ないままに、

 霧散する。

 






 鎖を断ち切るには、

 傀儡の糸を断ち切るには、

 生き方という、

 状態への一切の希求を放棄し、

 在り方という、

 その存在の性質に、

 成すべきことを成す為に、

 己の魂魄をかけて、

 全霊を注ぐ意外に手段は無い。






 






 我々はただ、

 成されるべきことが、

 成される為に存在し、

 成すべく事と成す為に、

 ここにいる。








 その意味で、生死ごときは、もはや問うところではない。








 生きるの死ぬのはしゃらくせえ。













 人は、

 生き方を選ぶことも、

 未来を選ぶこともできやしねえ。

 成すべきことを成す為に生まれるからだ











 




















 
 
 

 

 

 

 

 
 












 小生は、そういうことを、1時間に渡り話した。

 これから、

 クソみたいな現実と戦う運命にある、

 10代の連中に。

 

















 講演が終わったあと、

 多くの質問があった。

 まぁ、

 考えられねえことではある。

 一人なんぞは、

 講演が終わったあと、

 応接室にまで乗り込んできて、

 カチコチに緊張しながら、

 将来の助言を求めに来てくれた。













 果たして、

 話してよかったと思う。









 己の、

 魂魄にかけて、

 人が、

 成されるべきことを、

 成すがために、

 存在することを選ぶとき、

 その
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by 201V1 | 2005-12-28 02:54 | カテゴライズ前・生ログ
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