言霊の拳

NHKの番組に「しゃべり場」なる腐れ番組がある。

昔、1・2回見たことがあるが、議論の内容があまりにも稚拙で閉口したのを覚えている小生。厳密に言うと、議題そのものに「価値」をまるで感じなかったワケで、コンセプトを提起する「大人の側」に舞台設営のセンスがない気配が濃厚にした。

番組をご存じない方もおられるかもしれないが、簡単にいうと「ひとつの行為」に対する賛成派と反対派の「票の取り合い」という番組で、双方のセクトの「論客」が私見を述べ、敵対するセクトの人間を自分の側に寝返らせるという形で番組は進む。出演者は10代が中心である。まぁこの時点で「くだらん人々の論争」の匂いが満々だが、問題は実はここではない。

問題なのは、トコロドコロで「ゲストの著名人」が茶々をいれるその発言の全てが、オブラートに包まれている「大人な意見」か、感情丸出しの「全否定」のどっちかしかなく、子供を「圧倒する至言」なんて何処にもでてこないトコに、この国の不幸がある。この国の著名人には、浅学な子供の目を覚まさせる、覚悟も馬力もない。寝言をほざく子供をぶん殴り、失神させるコトバのチカラがない。子を殴る「言霊の拳」にまるで魂がこもっていない。そして子供にとって、果たしてこれほどの不幸はないのである。


「論客」としての能力が、大人と子供で大差がない理由は、なにか?


それは極めて単純な理由で、大人の殆どが、大人になってから、「一般常識に埋没」して生きているからである。「倫理的観点における行為の是非」なんて、大人は大人になった時にやめている。したがって社会に埋没している彼らの発言の背景にある土台は、あくまで「通念」であって「自らの考え」ではない。それは自分が社会性と同時に獲得した「ルール」を単に述べているだけで、「その行為の是非」を考察して得られた意見ではないのである。つまり、脳味噌を「通念」に明け渡した「社会的動物」が大人の代表である著名人なワケで、これでは子供が彼らを侮って当然である。



なぜなら、子供のほうが、「通念」に服従することなく「自分に従い」言葉を紡ぐからだ。子供にとって、多くの「大人」は「どうぶつ」であり、「自分」は「人間」である。確かに前者は狡賢く小利口で、後者は無知で浅学だが、「どうぶつor人間」という区別なら、大人は確かに「動物」で、子供は「人間」といえる。



ひとは、社会性に埋没したとき、「行為の是非」を通念に明け渡し、自らのコトバに宿る「魂」を失い、「社会的動物」に成り下がる。それは厳密な意味での「大人」ではなく、「自己を放棄した子供」である。「自己を放棄した子供」に「自己を保つ子供」を殴って目を覚まさせるチカラがない理由はココにある。



「ひとつの行為の是非」を全身全霊をかけて自らに問う成人は滅多にいない。そんなことをやっていては飯は喰えん。結果の「損得」と、手間の「多少」と、感情面の「快不快」で大人は動く。社会的動物の行動原理はそれである。それでいいと思う。でないととても生きてはいけぬ。子供をどーして養える。



しかしながら、子供をぶん殴る時はそれではダメだ。全然ダメなんである。魂の宿った拳で全力で殴り倒し、目を覚まさてやらなければならない。芯に残る重い重い打撃を加えなければならん。それが大人の務めである。そうでなくしてどうして「次代を支える社会的人間」を作れるのか?


我々は、飯のために、「社会的動物」と成り下がる屈辱に耐える。耐えてみせよう。しかしながら、それと同時に、寝言をほざく子供には、魂の宿ったゲンコツをお見舞いしてやらねばならん。



「その拳に、魂は宿っているか?」



「本当の正拳」を打てる人間に、我々大人はならなければならない。次代のために。

全身全霊を込めて拳を打ち出し、リアルを知らぬ、ガキの鼻をへし折れ。











====人を殺してはいけないのか?いけないならどうしていけないのか?===



「しゃべり場」でかつて取り上げられたテーマである。

以下に「殺人肯定派」と「殺人否定派」それぞれの主張を記する。もっとも「主張」として小生の眼に耐えうる意見ははゼロだが、まぁ彼らを育てた大人が腑抜けなので大目に見てやる。また、テーマからして「NHKの愚鈍さ」が存分に露呈している点も、このさいそれも大目にみる。



=肯定派=

赤城さん 「悪いことをした人は殺してもいい」

利根さん 「弱肉強食の世界だから誰を殺してもいい」

武蔵さん 「人に憎まれるようなことをしたのだから、そういう人は殺していい」

阿蘇さん 「殺しは本能だから原則的にいい」

大和さん 「そもそも世界は意味がないから、生に価値はない。だから殺していい」





=否定派=

ザンジバルさん   「人が人を裁き、殺す権利はない」

ムサイさん      「誰かが悲しむから殺しはいけない」

サラミスさん     「命は尊いから殺してはいけない」

マゼランさん     「あなただって死にたくないでしょう。だから殺してはいけない」

ホワイトベースさん 「殺しではなにも解決しない。だから殺してはいけない」





まぁ、こんなんである。「社会的動物」に育てられただけあって、現代の子供は揃ってパーである。真剣なのは、百歩譲って認めてやるが、「馬鹿」なのは議論の余地はない。馬鹿は仕留めねばならん。とゆーわけで、これより掃討戦に入る。論戦の基本は「封殺」である。とりあえずは全ての「ガキのたわごと」を撃沈しよう。



総員!戦闘配置!。

艦隊は、これより掃討戦に移行する。

旗艦「巨乳戦艦」に従い、各艦、敵を撃沈せよ!

武運長久を祈る!最後の一兵まで、尽く戦って死ね。





赤城さん   「悪いことをした人は殺してもいいんだっ」

巨乳戦艦  「その発言の背景には、貴兄なりの善悪の再定義があるものと思われますが。」

赤城さん   「はい・・。」

巨乳戦艦  「それを簡潔に述べることができますか?」

赤城さん   「えーとぉ。あの。そのぉ・・・・・えーと。あああああ。」   



 ちゅどーん



砲手  「250ミリ母乳砲・直撃!」

通信  「敵戦艦赤城・大破!!撃沈を確認しました!」

砲手  「次弾装填完了!」

通信  「索敵部隊が敵艦を確認。2時の方向に駆逐艦1!接近してきます!」

艦長  「イボ痔ミサイルで迎撃せよ!左舷弾幕薄いぞ!」





利根さん    「弱肉強食の世界だから殺してもいい」

巨乳戦艦   「それはどこの世界ですか?」

利根さん    「この世界です」

巨乳戦艦   「あなたのいる世界ですね?」

利根さん    「そうです」

巨乳戦艦   「あなたは強者と弱者のどちらですか?」

利根さん    「えーと、基本的には弱者です」

巨乳戦艦   「ではなぜ今も生きているんでしょうか?」

利根さん    「え・・。それは・・。」

巨乳戦艦   「つまりあなたは、あなたの認識している世界にすら存在し得ないのですね」

利根さん    「え?」

巨乳戦艦   「あなたは世界のイレギュラーなワケだ。ふっ。ご立派なこと。」






ちゅどどーん



砲手    「イボ痔ミサイル命中!敵駆逐艦、沈黙!」

通信手   「敵艦より通信、我が艦を挑発しております!」






武蔵さん 「人に憎まれるようなことをしたのだから、そういう人は殺していい」








艦長    「ちょこざいな。いわしたれ!微乳メガ粒子砲・発射準備!!目標・敵戦艦武蔵!」

砲手    「微乳エネルギー充電完了!!発射準備整いました!」

艦長    「総員、衝撃に備えよ!微乳メガ粒子砲ォ、発射ぁ!!」













微乳砲   「そんな限定的な話をしてるんじゃねえんだ。ミクロ野郎!いじめるぞゴルアァァァァ。」





砲手    「敵戦艦武蔵・轟沈!戦艦阿蘇も流れ弾に被弾、沈黙!」

艦長    「全艦に連絡せよ。これより我が艦隊は全力射撃に入る。全弾すべて打ちつくせ!」

通信手   「了解!」

艦長    「攻撃準備!目標・戦艦大和。全力射撃!!」












大和さん 「そもそも世界は意味がないから、生に価値はない。だから殺していい」



















全力   「んじゃあ、なんだ?耳もいらんな。もいでやるぁ。っっっウラー」






砲手    「敵艦隊、消滅!!殲滅を確認しました!」

レーダー 「・・・・・・ピピー。アラタナ・テキ・ヲ・ハッケン」

通信兵   「1時の方向に敵増援!ペガサス級をはじめ、戦艦多数確認。連邦・ジオンの混成部隊と思われます。」

艦長    「・・・・止むをえん。アレをつかう」

副官    「ビーチク爆弾ですか?あれは・・・」

艦長    「責任は私がとる。かまわん。やれ!」

副官    「はっ。全艦覚悟を決めよ。これよりビーチク爆弾を使い、雌雄を決する」

艦長    「女体帝国に栄光あれっ!!ビーチク爆弾っ投下!」


ビーチク爆弾

































どかーん


     ザンジ       バル「人が人を     裁き、殺す権利     はない」ムサイ    「誰かが悲しむか       ら殺しはい   
  けない」サラ    ミス    「命は尊いから殺        してはい    けない」マゼラ   ン    「あなただって
死にたくな       いでしょう。だから殺し    てはいけない」ホ     ワイトベース 「殺し   
 ではなにも解決      しない。だか    ら殺してはい       けない」




ビーチク    「だいたい是非を問うよーな事柄じゃねえんだ。へちま野郎ォ!」



ぼっひゅん。ばらばら。








とゆーわけで、敵艦隊の殲滅が完了したところで、次回はいよいよ市街戦へと突入。便衣兵の蹂躙を開始する。いよいよ「言霊の拳」炸裂の時である。(やりたい放題



||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||とう・びい・こんてにゅ。




で、更新。前回は途中で「感情丸出し」でキレてしまったが、まぁそれは忘れて進む。



子供の「哲学」には原則的に2種類しかない。ひとつが「観念の世界」。もうひとつが「捨て鉢の世界」で世を切る発想である。彼等のお気に入りの棲家はほとんど例外なく、このどっちかしかない。

つまり、大人と違い、「リアルな視点からみたあるがままの世界」に彼らは住んでいないワケで、だからこそ社会から隔絶した「ふざけた発想」がでてくる。

子供と対話する上で、1番重要なのは、彼らを「観念と捨て鉢」の世界から引きずり出し、「現実という土俵」に放り出すことだ。そうして初めて子供は世界を知る。

「現実という土俵」からは何人も逃れることは出来ない。奴等にこの「リアル」を思い知らせる必要がある。

敵を粉砕し、屈服させ、鼻をへし折り、そこから再生させるには、まず敵を知らねばならない。以下に子供達の住む2つの世界の考察を行う。







「斥候部隊に告ぐ、威力偵察を敢行せよ!」








=観念砦・偵察=

子供は観念の世界に住む。そこには血の匂いも、汗の香りも、泥土の感触も、砂の味も、苦い敗北も、諦観の木枯らしも、鮮烈な青空もない。そこは極めて無味乾燥な感受性の荒野である。彼らは痛みと歯痒さを伴わないコトバで、世界を説明する。それは受肉前の霊魂の世界であり、血肉をもった人間の生きる現実とは天地の隔たりがある。


「悪いこと」                       =悪を罰しきれないところに人類の「業」がある。

「弱肉強食 」                     =弱者を守るために「社会」がある。

「殺しは本能」                    =それを抑止するための「法」である。

「生に価値はない。」                =君はまだ「人間」を知らない。

「裁き、殺す権利」                  =人にはあらゆる選択の「権利」がある。

「命は尊い」                      =それを踏みにじるのが「歴史」である。

「殺しではなにも解決しない。」 =「死者」は実行力を失う。




彼らは、世界と人類が背負っている前提条件を無視して「人の世を騙る」。「語る」のではない。文字通り「騙る(かたる)」のである。それは「リアル」とは程遠い、彼らだけの「そうであったらいいなあ」という甘ったれた幻想に過ぎない。そして、その幻想が、生涯をかけて今日の世界を造った先人達への、侮辱に等しい行為であることすら、異世界に棲む彼らは分かっていない。

世界に甘い希望は届かない。世界はただそこに、悠久の時を経て、厳然と存在する。そこは一切の幻想を跳ね返す無慈悲な空間だ。善も悪もへちまもないのが浮世であり、先人の血と汗と涙で染められた大地には、ガキの戯言を受け入れる余地は最早微塵も残されてはいない。

ママのおっぱいが恋しけりゃ、一生夢の世界にいればいい。精精しがみつくがいい。時が満ちれば必ず人は哺乳瓶を奪われ、泣き言の通じないリアルな世界に放り出される。

世界に道理は通じない。そこに一切の議論の余地はないのである。




=捨て鉢山・偵察=

捨て鉢山は、かつての小生のお気に入りの棲家である。偵察うんぬん以前に元の家だ。捨て鉢山の子供は、観念の世界に引きこもってはいない。彼らはリアルな世界と接触し、自分の幻想とのギャップに絶望し、社会性を頑なに拒絶している。それは「闘争の放棄」に等しいのだが、彼らはそうは思わない。彼らが求めているのは、幻想との心中であり、殉死である。理想とともに朽ち果て、リアルな世界と決別するのがこの種の子供の望みである。それは一見崇高な生き方に見えるが、実際には逃避以外の何物でもない。臆病者の選択である。

土俵の土が悪いから、土俵綱がボロいから、行司がヘボだから「俺は相撲をとらない」とダダをこねて横綱から逃げる力士と同じである。なにがどうあろうと、決められた土俵で戦わねばならないのが人生であり、人の宿業である。ギャップに慄いて勝負を捨てるのは、正にガキの発想だ。しのごの言わずに歯ぁくいしばり、難敵と命を賭けて戦う気概がなくして、どうして「男」としての「女」としての名乗りを天下に上げれる所存か?











結論的には、「リアルな世界と対峙しない」という点で、「観念組」も「捨て鉢組」も大差はなく「根性なしの臆病者」であるといえる。よーするにガキである。そして彼ら新人類がいつの時代も「恥知らず」と断罪される所以は、「根性なしの臆病者」であるにも関わらず、何人にも許されない種類の議論を、我が物顔に展開する点にある。




====人を殺してはいけないのか?いけないならどうしていけないのか?===



この種の議論ほど、愚にもつかない論戦はない。テーマ自体が不毛である。それは「いけない。いけなくない。」という問題ではなく、現実に既に存在している事実である。殺人は観念の世界ではなく、こうしている今も、リアルな世界で行われ続けているのだ。それを脇において展開される観念的な議論には一片の価値すら見出すことは不可能である。


一切の議論は無意味だ。



必要なのは気概である。



何の気概か?



それは「戦う気概」である。「リアルと戦う意気地」である。



人類史は闘争の歴史であり、それぞれが血の命ずるところに従い、今日の世界地図は造られた。あらゆる人間は、この闘争に、いずれかのセクトに属する戦士として、参加することを余儀なくされる。


浮世に非戦闘員は存在し得ない。それぞれがそれぞれの魂と血にかけて、骨肉の争いに生涯を費やすのだ。


この世界に生きる何人たりとも逃れることはできない。例外はない。


例外はないのだ。


全ての人間は「言霊」と「物理」の拳をもって、世界と対決しなければならない。


ガキどもを殴り倒し、この真実を伝えねばならん。


そのための「対話」である。



次回、「言霊の拳」最終話。


子供の幻想を打ち砕く、真実の森羅万象を拳に宿らせ、おじちゃんは打つ。ぶん殴る。次代の大人を作るため。


『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『『とう・びい・こんてにゅ
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by 201V1 | 2004-05-23 01:12 | ■議論
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