くたばる前に、くたばる時に、


小生は、格闘技が好きである。

自身もやる。

ガキの自分から柔道一筋である。




無論、路上でもやる。

死ぬ時は畳の上なんて軟弱なことをほざくにはまだ早いからだ。

身体が動くうちはぎゃんばる。

機会があれば必ず参戦する。



神速の背負いでぶん投げる。

ヘタクソな正拳も打つ。

耳もそぐ。(やりすぎ




なんでって、君っち。

暴漢をほっとくなんて選択は、世界にありはしないのだよ。

武とは矛を止める盾です。

暴を制するのが武なのです。

武道とはそうある為に人が歩む道です。

誰もが歩いているのです。







で、その前線にいる男達がいる。女達がいる。

それは軍人とファイターである。




前者の真の姿を見ることは、極めて困難だ。

映画や私小説、レポートなどを通してしか、彼等の実態は見えてこない。

小生はこの手合いの本をよく読む。

知りたいからである。

何人もの命が散った戦いが何だったのかを。

見届けたいからである。

彼らがどうやって戦って逝ったのかを。




小生も、彼らの戦いと比べればはるかに生易しいものだったけれど、

かつて確かに戦った。

命駆けで、暴に立ち向かった。

だから知っている。

戦う者が、心のどこかで、自分がどんなに勇敢に戦ったか、

誰かに記憶して欲しいという、ほんのちっぽけな願いを。

だから読む。

彼等の最後の数日を、ちょっとでも覚えておいてあげたいから。






けれども、それは映画であり、書籍であり、物語である。

世界に存在する全ての物語は「 架空 」ではない。






人の手で創られる物語とは、

かつて、いつか、誰かが同じように生きた、その記録である。

それは極めて精緻な記録だ。






名前は違うかも知れない。場所も違うかもしれない。時代も違うかもしれない。

けれども、世界の全ての物語に登場する人物は、実在の人々である。

彼らはかつて、これから、確かに地上に存在し、存在する人々である。

全ての物語の登場人物には、それと「同じハート」で生きた人間がいる。

人が描く物語とは、人々とは、確かに実在するのだ。






物語とはそういうものである。






けれどもそれはやはり物語であって、ナマモノとは違う。

ナマモノは後者である。

金を貰って戦うファイターである。






彼らは、磨き上げた武を、観客の前で見せることで食べている。

小生は軽蔑しない。

断言しよう。

職業に貴賎はない。

卑しい働き方ってのはある。

卑しい稼ぎ方ってのはある。

でもね、職業に貴賎はない。

人はどんな仕事だろうと、胸を張れるのだ。

大事なのは生きる姿勢であって、シゴトの名前なんかじゃないのだ。





ファイターは金の為に戦う。

そうでない場合も多い。

自分がどこまで行けるのか、確かめるために戦う人々がそれである。

しかしそれでも金は要る。

だからファイターは確かに武を金に換えている。

暴を止める為の武を売り物にしている。

武を志して暴にいたる軍属と比肩する愚と言えば、確かにそうかもしれない。

けれども小生は、それでもファイターを支持する。






何故か?






それは、

「 戦う 」という、

万人が人生で経験する峠を、

「 越える姿 」を、

ファイターがまざまざと見せてくれるからだ。

ブラウン管を通して、我々の前に現れる「 戦う人間の姿 」は、

戦いを忘れがちな我々に、峠を越えようとする人の強さを教えてくれる。

人が、どれほど素晴らしいのか、何度も何度も教えてくれる。

ファイターとは、肉体を媒体に、魂を人の心に刻む表現者である。

彼らは人がどれほど素晴らしいのか、血達磨になりながら、証明しようとする。

彼らは、証明する為に、戦っているのだ。








格闘技を見ますか?








小生は見ます。

選手の抱えるリスクの大きな格闘技程、特に見ています。

それは、リスクが大きくなるほど、「 人間の証明 」が行なわれるケースが多いからです。

地上波で、現在1番「人の証明」が行なわれる競技は、

「プライド」と「K1」でしょう。(ボクシングは放映が少ないです)

見たことがありますか?

是非1度、見てみてください。

彼等の命懸けの証明を、見届けてください。









プライドは、ほとんどルールのない競技です。

カンタンにいうと、噛み付き・目潰し・金的・後頭部への打撃・顔面への肘撃ち以外は全てOKの競技です。

失神かギブアップで勝負が決まります。

薄いグローブで殴りあい、関節を極め、硬いマットに投げつける、ノールールの戦いです。




小生は、見たことがあります。

それはアメリカ人と日本人の戦いでした。

ドン・フライという、元は消防士のオジサンと、

高山というネイティブアメリカンの血をひくプロレスラーの試合でした。





ゴングと同時に2人は約束でもしてあったかのように、

互いの肩を片手でつかみ、殴りあったのです。

ノーガードでの撃ち合いでした。

避けることも、二人は選びませんでした。

ただただ、全力で撃ち、相手の打撃に耐えたのです。




タップをしない選手は少数ですが確かにいます。

エンセン井上などは、腕が折れてもギブアップしません。



しかしながら、かつてノールール系の試合で、

避けない・守らない・打ち合う。という暴挙が成されたことはありませんでした。

真剣な競技である「プライド」において、そんなことをすればブチ壊れるからです。

けれども2人はやりました。

約束でもしてあるかのように。

彼らは、証明するために、それを行なったように、小生には思えました。

それは生き方でした。

人が、どこまでやれるのか、確かめる生き方です。








小生は思います。

確かめる生き方を選ばなければ、どんな人生がほかにあるのかと。







守りに徹し、一撃にかける生き方もいいでしょう。

足を使って華麗に舞い、ザクザク行くのもいいかもしれません。

カウンターを狙うのも素敵でしょう。

ポイント重視のスタイルも、愚直に前にでるのも、それぞれに美しい。






けれども思うのです。

そうじゃないシーンが、人生にゃなくっちゃいけないんじゃないかと。

努力や根性や勇気ではない、何かを掴まなければ、いけないんじゃないかと。






確かめてみよう。

人がどこまでやれるのか。

どこまでいけるのか。






ノーガードで殴り合うって馬鹿を、生涯を通じて一度でもできたか?

そういう相手に恵まれたか?

応えてくれる器量の人間に出会えたか?

自分は応えられたのか?

その度量があったか?

自分は確かめれたのか?







死の間際、きっと小生が思うこと。








生涯を無駄に送らなかったか。








人が浮世で成し遂げられることは少ないけれど、

確かめたか、確かめなかったは、

その人の生涯の意義を、ことのほか大きく変化させる。







断固、打ち合える人間に。

避けず、守らず。ひるまずに。

ただただ、人間を証明するために。

確かめるために。

































くたばる時は、前のめり。



和魂要塞・再起動。
[PR]
by 201V1 | 2004-07-03 22:40 | カテゴライズ前・生ログ
<< 祝!一万アクセス突破。 201v1.遂に顔を晒す! >>