自前の出刃で刺される


ブログでメッセで方々で、

最近手前の言葉で身を切られてます。

かつて手前のぶった一節を、

それを自分のものにした人々が、

心の中でもう一度切っ先を研ぎ澄まし、

「 よいしょ 」と小生に返してくる。

戦慄します。

そのあまりの切れ味に。






山田は言います。

「 あんたの言葉は核弾頭 」だって。

「 さもありなん 」とは考えていたけれど、

研ぎなおされた手前の言葉で切られてみると、

予測してた衝撃とはまったくもって別物の、

皮膚や肉なんかねえよーに、

心の臓にそのまんまストント刺さる出刃の冴え。

俺はこんな言葉を紡いでたのかと戦慄する。

ガード不能の一撃が、被布と肉を食い破って心の臓に丸のまま刺さる。

防御なんかまるで無意味だ。

どんな鎧も貫通しちまう。

こええ言葉だと思う。





こんな切れ味は、

俺しか感じてないかもしれん。

それでもね、

この1割の深さまでしか、一発目の読み手に突き刺さらないとしても、

こりゃあ相当兇悪な言葉だってのはなんとなく分かります。

俺はとんでもねえ弾丸を、すげえ勢いで乱射してたのですね。

いまさらながら、こええ奴だと痛感する今日。

それでも撃とうと心に決める。




人間が口に出す言葉ってのは、

嘘じゃなけりゃあ、残りは2種類しかない。




「 信じてる言葉 」と「 信じたい言葉 」だ。

それは、

「 ちゃんと知ってる言葉 」と「 実は知らない言葉 」って意味でもある。

「 在る心 」と「在って欲しい心 」だ。

このふたつは、なかなかにして違う。




普段はね、コイツラは腹ン中でごっちゃになってる。

「在る心」も「在って欲しい心」も、魂の中じゃ同じことだからだ。




だがね、外から来る言葉になったとき、

普段判別のつかない「在る心」と「在って欲しい心」は、

それがどっちなのか明らかになる。



心の臓に丸のまま突き刺さってくるのは、「在って欲しい心」である。




「在って欲しい心」は、「かつて在った心」だ。

「在って欲しい心」は、「在ったハズの心」だ。

失くしたものだからこそ、心の臓に突き刺さる。

本来ある場所に、心は必ず帰るからだ。

失くした心が、隙間を埋めるのだ。

だからどんなに厚い壁も、言葉って奴は突き抜ける。

帰るために。





歌ってのは2種類ある。

「 あるんだぜ 」って歌と、

「 返せ 」って歌だ。

歌っ本人にゃあ、

どっちなのかわかんねえ歌詞の方が、

そうじゃねえのより多いかもしれねえ。

でもね、どっちかか、どっちでもあるかの2つにひとつなのは間違いのない。






言葉ってのは心だ。

言葉を貰うってのは、心を返してもらうことを言う。




だから俺たちはありがとうって思う。




勇気を返してもらう。

意気地を返してもらう。

克己心を返してもらう。

優しい気持ちをを返してもらう。

恥を知る心を返してもらう。

言葉によってそれらが戻る。

たまに影のささやくクソみてえな記憶が戻る時もある。




言葉は抜き身の人斬り包丁だ。

迷いも切れば、望みも断てる。

振り回すには覚悟がいる。




振ろうぜ。腹決めて。

研ぎ澄ました切っ先で、迷いを断ち切り、失った心を返すんだ。

言葉ってなあ、そのためにある。

人は、誰かが失っちまった心を、呼び戻すために、言葉を紡ぐ。

精一杯の想いを込めて、出刃で迷いを刺し貫くんだ。

失せやがれってね。






傷つけるための刃じゃねえんだ。

迷いを断ち切るための刃なんだよ。







言葉ってなあ迷いを断ち切る力がある。

迷いを生む問いで終わらせるにゃあ勿体ねえ。






だからね、ちゃんと振りぬくんだ。

「 でいやあ。 」

ってね。













寸止めなんて、ねえんだぜ。
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by 201V1 | 2004-07-28 18:58 | カテゴライズ前・生ログ
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