ブログで言葉をつづること


多分だが

小生が思うに

同じブログで

言葉を綴り続けるということは

同じ車に乗ったり

同じ家に住んだり

同じ町に住むのとは

全体ワケが違うのだろう。





ブロガーは

そのブログが始まった時

理由があって筆をとり

物言わぬ画面を通して

見ず知らずの誰かのために

自分の心を文字に託して

気持ちを紡いでいく。






ひとつの記事は

自分をつつむ繭かとった生糸に過ぎず

ブログそのものが

次第に一枚の反物にように

段々と織られていくのだ。





その反物を使って

仕立てて着るのは読者それぞれであることが、

ブログを通じて知り合った

見知らぬ書き手と読み手たちの

楽しみだったはずである。








ブロガーが

ペンを置くのは

かつてそのブログで編まれた生地と

今の自分の言葉が紡ぐ生地との間に

相容れぬ

質的相違を感じた時だ。






たとえそこに

連続性があったとしても

僕たちが育てた

僕たちのブログは

新たな記事を

容易に受け付けたりはしない。







僕たちの人生は

ある日

突然景色が変わる。






ブログはそれを許さない。






記録はいつだって鮮明なのだ。






ぼくたちの記憶より、ずっとである。







魂よりも

ブログはずっと

その普遍性に拘るのだ。






ブログが頑なに変化を拒む

その一方で

僕たちは

生きていく日々の

練磨と磨耗の連続の中で

時に鋭く

時に文字通り身と心を磨り減らせながら

いつかくる死に

一歩づつ近づきつつ

その時までに

少しでも

確かだと思える何かを

手の中に掴もうと

足掻いていく。






確かめようとさえしなければ、

人は

今のままで

いられる。







確かめようとするほど

人はどんどん

変わっていくのだ。






風の中で

雨の中で

嵐の中で

木の葉を掴むために。







たとえ残るものが

あの日

風に揺れる木の葉を

この手に掴もうとした記憶だけだとしても

掌に宿った気持ちの確かさだけは

空の手の中に

持っていくことができるからだ。






この世で

ただひとつだけ

確かなものは

宿る気持ちの中に瞬く

瞬間の確かさだけだとしても

それすら僕たちは

わが手で確かめなければ

それが

そこにあることに

気がつけない。








確かめようと

紡いだ糸と

織り続けた生地には

命が宿るけれど

それは

人間とは違って

そのから先を

自ら確かめようとはしないかわりに

僕たちに

そのままでいることを望む。






まるで

あの時のままで

いないのに

なお書くことは

これまでを

汚すことだと

叫ぶように。









馬鹿みたいな話、

自分の命をそのまま透写するようにして

書いた記事とブログは

失われれば

自分の一部を失ったかのような

喪失感に誘われる文字通りの半身である一方で

再び書き始めることを許さない

焼けた鉄の手枷足枷にもなる。





まるで

乗り換えを許さないのが

心と魂であるからだと

いわんばかりに。









車や家や街とはワケが違い

ブロガーの住む

ログの世界には

新天地はなんぞありゃしない。





捨てない限りは

始められない人生があるように

ブログはいつまでも

主人の影を追う。







ある人は

永久に筆を置き

青春の記憶と一緒に

かつて紡いだ魂のログを

再開することなく

日々に戻っていく。





ある人は

いつか

どこかで

新しい記録箱に出会い

また

書くことを通じて

確かめる術を

自分の中に見出す。






そしてまたある人は

君の前に現れるのだ。










いつか

「友よ、還ってきたぞ」と。
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by 201V1 | 2008-12-03 00:00 | カテゴライズ前・生ログ
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