ドープ


4年に一度のオリンピック。

アスリートの正念場である。

ここでメダルを取ることで、人生が変わる種類の人々がいる。

普段「 無関心 」を決め込まれているマイナー競技の選手にとっては、

オリンピックは「 活躍 」の唯一の機会ですらある。

報奨金で家族の暮らしがどん底から好転する人々がいる。

命懸けの舞台である。

ドープを行なう人間が現れる。




スポーツに限らず、

人が「 能力 」の限界に挑もうとする時、

いつも眼前に「 カベ 」が立ちはだかる。

アスリートが、限界の前にそびえ建つ障害を、

「 カベ 」と認識できる間はドープを行なうものの気質は限られてくる。

競技者とは、本来限界に挑むことを好む人種だからである。

それは挑戦者の意気だ。

しかしながら、それを「 鎖 」だと人が感じた時、

ドープによって自身を縛る「 限界 」を断ち切ろうとする者が気質を問わず現われる。

おそらく、ドープを行なっているか否かの間に、

多くの場合、精神的な貴賎の差はない。

ドープは人間の証明にはならない。

あるのは「 認識 」の相違だけである。






ある種の人々が常に「 限界 」に挑むのは、

「 必ず越えられる 」という理屈をブチ抜いた確信があるからだ。

挑戦者とは、その感覚の中で障害を克服していく喜びに魅入られた人々である。

「 このままで終わること 」に納得できない人種だ。

可能性に賭ける人々である。

この種の人々が、障害を「 カベ 」ではなく「 鎖 」だと感じた時、

全てのドーピングは彼らの中で肯定される。

そしてそれを否定する権利は世界にはない。





「 強くなれる 」

「 速くなれる 」

「 殻を破れる 」




ドープによって得られる「 記録 」を、

「 薬の力だ。」と感じながらドーピングを行なっているアスリートは殆どいないはずだ。

彼らにとって、ドープは「 殻 」をぶち破る為の起爆剤に過ぎない。




ドーピングが全面的に開放されたケースを想定する。

おそらく殆どのアスリートが薬物に手を伸ばすだろう。

「 かけっこ 」に人生を賭けるならば当然の選択と言える。

小生は、彼らを肯定する。

手段を選ばないその姿勢に、一塊の美しさを認める。




アヌシュ選手は卑怯者と後ろ指を指されるのだろうか?

吊るし上げを喰らうのだろうか?

また世界のくだらん倫理に「 食い物 」にされる者があらわれるのか?




少なくとも、「 記録 」に命をかけたことのない人間に、

彼を非難する一切の権利はないはずだ。




確かに彼らは、誘惑に負けたかもしれない。

ルールを破ったかもしれない。

ズルをしたかもしれない。

ドープを行なわなかったものから勝利の瞬間を奪ったかもしれない。

だがしかし、彼らは全てのリスクを承知でそれをやったのだ。

その彼らを罵倒する権利を、小生はここに放棄する。




メダルは剥奪されてしかるべきだと思う。

記録は抹消されてしかるべきだと思う。

しかしながら、

何人たりとも彼らを「 卑劣 」と罵ることができるだろうか?



小生は、彼らの味方でいてやりたい。



ドープは、精神の貴賎を証明する材料にはならない。








「 死んだっていい 」






そんな想いで競技に命をかける人々が、薬の力を借りたという事実だけで、

人非人扱いを受けなければならない道理を、小生は知らない。





だれか知っているのだろうか?

そんなクソみたいな道理を。
[PR]
by 201V1 | 2004-08-31 09:21 | カテゴライズ前・生ログ
<< 子育て 似顔絵 >>