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by 201V1 | 2004-05-28 12:42 | ■愛っ
「愛」かね「愛」。その1
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ふー。愛ねえ。

五十音の真っ先に来る2文字の「あい」。

方々でよく聞くし、小生自身、まれーに口から出している。

「よくわからん」ままに。




ま、学問として「愛」を考える場合は、アガペ・ストゲイ・ルダス・プラグマ・エロスの類型で割り切りゃあ、分かり易いし、話は滅法早いんだろうが、そうは問屋が卸しちゃくれぬ。くれぬが花の浮世ナリ。ってんで今回のテーマは「愛」。



今回は、家族愛だの友愛だの恋愛だのコマカイ細分化はしないで、「愛」そのものをぶった切ってみる。





まぁ、まずだね。「劣情」についてだがね、小生は「劣情」は「愛」の内に分類していない。愛の一類であるエロス・ルダスとも「劣情」は決定的に違う。ありゃあもっと「禍々しいもの」よ。愛とは完全に別物さ。なんたって野郎は暗いしジメジメしている。「劣情」の裏には「穢したい」という腐れた心根が見え隠れして、やれん。やってられん。



とゆーわけで、これからか語る「愛」のなかに「劣情」は入らない。でゆーか入れてなるものか。あんなもんは語るに堕ちる。自分の中にも存在しているという事実だけで、お腹いっぱい、もぉ沢山である。





で、「愛」とはなんぞや?










小生の家には、母親がカウンセラーだった所為もあって、昔から心理学に関する書籍が結構な数で文字通り転がっていた。(お袋は片づけができない。=小生もできない

で、当然、前後不覚の五里霧中であるモラトリアムボーイとしては、これに飛びつかない道理はないわけで、少年の頃、貪るようにこれらの専門書を読み漁っていた。一般に流通している「心理系読み物」ではなく、「真性の専門書」に釘付けだったのが少年の頃の小生だったわけだ。

やおら不気味な少年である。人生で1番脳みそが「スポンジ」になっている時期に、こーゆー馬鹿をやれば、決まって「頭でっかちの阿呆」が誕生する。小生は正にその典型であった。

20歳で元服する頃には、すっかり脳みそは「心理学」で汚染されており、文字列・記号としての「知識」で戦うなら、心理学専攻の大学生をひねる位の知識があった。だがしかし、如何せんガキである。幻想星人である。机上の空論戦には無敵でも、現場ではパーである。応用力がない。すなわち知識はあるが血肉になっていない。つまり馬鹿。ということで、これは全く実を結ばなかった。


しかしながら小生は「生粋の理屈好き」である。このさいだから堂々と言うが、感性もそこそこ鋭いっちゃ鋭い。いわば空と飛ぶ出刃並である。目端も利くが、かまわないのでよく失敗する。予知で女難。現実に女難。立て続けに女難である。どうしてくれるんだ!


ってそうじゃなくてだな、問題は「理屈好き」なんだよ201V1さんよ。落ち着けよ。


とゆーわけで、小生は理屈が好きだ。全ての物事に理屈をつけ、あらゆる単語を自分自身で再定義しないと落ち着かない。とゆーか物の考えがまとまらない。喩えがないと「なにもかも」が「わけわからない」。だから全てに理屈を求める。カタチなきものもこの例外ではなく、小生の脳内ではあらゆる事象に「理屈」が強引に接着される。



したがって、「愛」だの「成熟」だの「健やか」だの「正義」だの「魂」だの、ありとあらゆる「カタチなきモノ」にも「道理の通った理屈」が必要なんだが、抽象的な思考は大のニガテと来ている。だから生まれてこのかた一切の「哲学書」には手も触れなかった。






「なにいってんのか全然わかんねえ」

からである。






カタチに喩えてくれないと、まるでなんにも掴めない脳の造りなんである。いわば「超理系」である。(ものは言い様



師を持たず、哲学書にも頼れないとなれば、あとはもう独学でなんとかするしかないわけだが、親父はアカの上にアナーキストという酷い有様。お袋は大脳皮質に化学と心理学を搭載しているが、原則的に間脳の支配下にある為、道理が通じない。



よーするに手の打ち様がない。というか手の施しようがない為、親戚に知恵を授けてもらおうと画策するも、一族は知恵と人知を知らぬ無縁仏状態であり、最早進退窮まった。


じゃあ。ってんで、村の年寄りに「人生の機知」を教えてもらおうとするも、連中はナタを投げて猪を仕留めるような「人外の獣」な為、人語が通じない。コミュニケーションが不能である。小生、途方にくれる。


途方にくれた小生は、仕方なしに「文学」に救いを求めた。ま、無論文学といっても、土台脳みそが抽象表現を受け付けないので読むジャンルは決まってくる。




「時代小説」である。



ハマッた。



しかしながら、流石に1日文庫本2・3冊とゆー剣客ペースで貪り読むと、さしもの池波も峰も早乙女も隆も佐藤も司馬も忍法帖も、いーかげん著書が尽きてくる。

で、読むものがなくなってしまった小生は、新たなジャンルの開拓を余儀なくされた。





「戦記物」である。

大東亜戦争である。

侵略15年戦争である。

とにかく戦争である。

この際戦争ならなんでもいい。

一億・総・火の玉である。






ってんで、これもすぐに読み倒してしまった。このころには、既に脳みそはぐちゃぐちゃだ。魑魅魍魎の佃煮みたいな世界が構築されている。その上に隠し味として混ぜられているスパイスが普通ではなかった。




「宇宙物理学」「西洋魔術大全」「博物学」「ジミヘン」「人文学」「歴史学」「陰陽道」「犯罪心理学」「ブラジリアン柔術」「サイコパス」「超心理学」「アリーマイラブ」「新渡戸の武士道」「宗教学」「クイーン」「古武道」「死語辞典」「少女革命ウテナ」「解剖学」「皮のなめし方」「兵器事典」「世界の拷問」「ノンフィクション」「病理学」「映画キラーコンドーム」「できる営業マンはここが違う」など



ほとんど何も考えず、侍と兵隊の隙をみては、手当たり次第に目に付く映像とテキストを、片っ端から見て読んでいた。その上このほかに漫画の蔵書が1500冊くらいある。ほとんど馬鹿としか言えない。























で、当然、なにも覚えていない。











時代小説なんか酷いもので、「読んだかどうか」すら覚えておらず、






「うおおおお。超おもしれえ。流石は池波。素晴らしいぜ」





なんて新たに購入した小説を感動の中で読み終わったアト、「さて今度は何読もうかな」とか思って書架をさぐると「さっき感動した本」が本棚から2・3冊でてきたりする按配である。(実話。しかも長編シリーズものだったりする。気づけよ。





こーゆー末期的な症状が現れ始めたのが23才位の時で、勤め人をやっていたその後の2年間でこれがさらに悪化する。段々歳をとってきた小生は「新しいもの」を受け付けなくなり、再び「時代小説・戦記物」へと嗜好が単一化。最近では買った本の3冊に2冊が「既に持っている。何度も読んでいる本」だったりする。だから最近は本を買わない。




で、こーゆー読書歴を重ねながら、小生は高校で死線をくぐり、アフリカで無茶をやり、自宅で寝たきりになり、勤め先で馬鹿をやっていたわけで、流石に段々とリアルのなんたるかを理解するようになる。




で、ふと、心理学の再評価を行うにいたる。

昔は気がつかなかった現実との符号に感心。




ほう。





ってな感じである。




1年と少し前くらいだろうか。

急に視野が開けた。目の前の霞が晴れた。

そんな状況で今日、ブログを書いている。

だから結構うまくいく。










つかれた。


つかれたので以下次号。(いい加減その引っ張り方はやめてください



※ちなみに恋愛類型の自分のタイプを知りたい方はココ。





================================


とゆー次第で更新。

うほ。なんか知らないうちに半日たってるぜ?12時間も寝ちゃった。あべし。子供か小生は。




で、だ。

流石に阿呆のように膨大な知識を飲み込みながら、それを全部忘れつつ、サンドバックのよーに殴り殴られ、馬車馬のよーに働き働かせ、ずいぶん余計に恋し恋され、なおかつ満足に愛せぬまま愛されて年をとると、ガキの頃のよーな「こーであったらようにゃあ」なんて犬も喰わない希望は掻き失せ、次第に「ありのままの世界」にピントを合わせれるようになる。



ようやくスジも通ってくる。

ヤサグレはしても、多少は論調に軸ができてくる。

混乱が収まり、思考がまとまる。で、読むに耐える文が書けなくもない。(自信はない




そーゆーワケで、吸収した知識を使うこともなく寝腐れさせ、文字通り肥やしにた大地が小生の土台であり、背骨である。世間で言う土性骨というやつだ。もちろん大地は馬車のワダチと人畜の血でデロデロのボコボコである。あまり寝心地はよろしくない。というか最悪。しかしながら朝日を愛で、夕暮れを偲ぶには絶景であり、昔よりはずいぶん見晴らしがよくなった。




人生で残された未体験ゾーンは、「結婚」と「子育て」と「離婚」と「養育権の取り合い」と「免れぬ老い」と「不治の病」と「いつか来る死」ぐらいと、昔と比べてずいぶんと数量が限定されてきている。少なくとも能動的に馬鹿をやらない限りは、未知はそれほど残されていない現実がある。

加えて記すなら、実際には何度か結婚しているよーなチャランポな身の上なので、蜜月の甘美も運命共同体の苦悩も味わっている。マラリアで精巣がバカになっている為「子供うんぬん」は多分ない。残りの3つは仕方ない。そんな状況である。

もしかしたら、人生の「未知のある時代」というのは、考えているよりずっと少ないのかも知れん。

ひょっとすると、「あがりの手前」にいる自分がいる。

で、考える。











この先、このまま「前後不覚」のまま、知ったか顔で小生は、残りの道程を歩むのか?








なんとも、やれん。

無知のまま、物知り顔で、知った道をすすむコトほど難儀な話はないだろう。

景色の歪んだ旅は、心地が悪いし、つまらない。

つまらん以前に、立派に2足歩行できるか怪しい。

小生の気性では、油断すると四つんばいで行く気配が濃厚である。

出来うるならば、許されるならば、人の身でこの道程を歩きたい。







で、小生は考える。


愛とはなんぞや?














小生の思考は、乱文の所為で一見すると複雑に見えるが、実際には極めて簡潔である。当該ブログをずぅーと読んでおられる読者は既に皆様お気づきかと思う。

人がそれぞれの内的世界に住むとすれば、小生は「白」と「黒」の2色しかない世界で日々の無聊を慰めている。



世界は「黒白」である。






それは様々な言葉に置き換えられる。

「陰と陽」

「清と濁」

「魂と魄」

「人と鬼」

「治と乱」

「光と闇」

「武と暴」

「晴と穢」

「戦士と奴隷」

「和魂(ニギミタマ)と荒魂(アラミタマ)」




人類史とは、この2つの勢力の版図争いの歴史である。

人間とは、この2つを内包した器である。

人生とは、内と外の両側で、この2つの勢力の先兵として戦う為に、世界が人に許した時間である。

そして運命とは、そのすべてを度外視して降りかかる、白も黒もない「超越者」である。




小生は、自分とそれをとりまく世界をそう位置づけて生きている。


じゃあ、「愛」ってなんなのさ?

ってのが、今回のテーマである。やっとである。









なげえ。ながすぎる。


うるっさい。


長い短いしゃらくせえ。問題は太さだ。重要なのは、ごんぶとだ!!(大暴走


仮にも「愛」を語ろうとするとき、すべてをハショッテ始めたんでは、そこらの書店に並んでいる、売り専の「愛の指南書」と同じになってしまう。そんなことぁ、我らが当該ブログでは、断じて許されはしないのだ。売僧の類と同じになれちゃあかなわない。悪いがうちじゃ免罪符は売ってない。投売りしてんのは小生の心根だ。どーだこの野郎っ。








ってんで、馬鹿は放っておき、

「和魂要塞」の読み仮名は、「わこんようさい」である。

しかしながら、これには隠された本当の名前がある。

「忌み名」という奴だ。

親が子に、密かに与えるマントラ的「名」である。

当該ブログの忌み名を




「ニギミタマ・ヨウサイ」と言う。




それは、「正義・最後の砦」という看板である。









この看板にかけて、小生はテキストを書いている。

だから、出だしの遅さにぐちゃぐちゃもぐもぐ喚かれても困る。

許せ。全部。(むちゃくちゃ






で、次回、いよいよ本題に入る。

たぶん今までで1番「セメント」な勝負になるだろう。(※セメント=本気の意







だがしかし、天地神明に誓って、小生はここに皆様の戦慄をお約束しよう。

次回、あなたは「愛」のなんたるかを知る。(大きく出たなおい。収拾つくのか?
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by 201V1 | 2004-05-26 22:14 | ■愛っ
「愛」かね「愛」。その2

世界は「陰と陽」で満たされている。

                                       



      「魂と魄」                      「清と濁」             

「人と鬼」           「治と乱」          

                             「光と闇」        「武と暴」                  
              「晴と穢」                 

                                 「戦士と奴隷」                     
  「和魂と荒魂」






これが世界である。





人が「愛」を語るとき、

人が地に足をつけて、世界における「愛」の実践を考える時、

当然、「陰と陽」も、別の言葉で表現される必要がある。



















それが、「健と病」だ。
















「愛」とは、 人を病から解き放ち、健やかにすることである。


「愛」とは、 病魔に脅かされる環境を、健やかさを育む土壌へと変えることである。


「愛」とは、 病苦をもたらす魔の眷族を駆逐し、健やかさを維持することである。


「愛」とは、 その対象を「健」へと推し進め、「病」から遠ざけるベクトルである。












それは「 健を願う心 」であり、「 健に導く行為 」である。















「愛」には、「気持ち」と「行為」の、似て非なる2つの側面がある。







             「僕は君を愛してる」     ・・・・・・・・・・・・・・・・       「あんたなんか愛していない」                                   
            ・・・・
  
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    「もうだれも愛さない」      
         「愛したくない」                                   ・・・     ・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  「愛ってなに?」   ・・・・・・・・・・・・・・    
                                 「これは愛じゃない」                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・                          
   「君を愛したい」       
                                   ・・・・・                    ・・・・・・・         「愛をちょうだい」
「愛なんていらない」                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                   
       
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・「恋と愛はちがう」                     
 「人を愛したことはあるわ」                       ・・・・・・・・・      

「この人を愛そう」  
                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                      
          「愛してくれてありがとう」                         
                「そんな愛は認めない」           
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     「もう愛せない」                                                  ・・・・・・ 
  
 「愛してるって言って」            
             「愛し合う」            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                                  ・・・・・・・・
            「彼を愛せるのだろうか」       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・             ・・・・・                     
 ・・・・・・・・・・   「これが愛?うそでしょ?」      
                                                                  「誰かに愛してほしい」    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      ・・・・・・・・・・・・・                                              
         「愛してるなんていうなよ」        ・・・・・・・・・・・・・・          ・・・・・・・・・・・・・・・        「かつて私も愛された」







人が「愛」を口にする時、

そこには「気持ちとしての愛」と「行為としての愛」の2つがあるのだ。





=   健やかにあらんことを願う「 気持ち 」 =




=   実際に健やかさを推し進める実行力を伴った「 行為 」 =






この2つは決定的に違う。

愛には2つの顔があるのだ。

そしてここにこそ、「愛」の複雑性がある。

前者と後者がセットで成立しない現実に、人の業があるのだ。

この違いを理解しない限り、永久に「愛」の本質は掴めない。

そしてこのテキストは、「愛の本質」を解き明かす為に書かれている。









カギは「健やかさ」にある。









「健やかさ」とは一体何なのか?

それを知るには、まず始めに、その逆位置にある「病」に焦点を合わせなければならない。

人が光を掴むには、闇にもまた、触れなければならないからだ。
















精神病理学という学問がある。

人の「心の病」を解き明かす学問である。

数ある心理学の系統の中で、特に「病」に関する考察に特化した学問だ。

そして、この精神病理学という体系の中に、考察の対象を犯罪者に限定した分野がある。







世に言う、犯罪心理学である。








この学問における、研究対象として最も人気が高いのは、明らかに精神に異常をきたした犯罪者群、一般にもよく知られる「サイコパス」という連中である。

なぜ彼らが人気なのか?

それは、かれら精神異常の犯罪者達が、「病の極」に存在する個体群だからである。

よーするに、ぶっ壊れ方が並外れた「極めつけのポンコツ共」なワケだ。




まぁ、レポートとかでじっくり読んでみると骨身に染みるが、ちょっとやそっとの「病み具合」ではない。

レイプなんか朝飯前、死体とバンバンHしちゃったり、人間もぐもぐ食べちゃったり、獣姦が日常だったり、子供攫って拷問しながら射精しちゃったり、そんなのを年中無休でやりたい放題な畜生共で、もう度を越えて無茶苦茶である。流石の小生すら開いた口が塞がらない。そこには間違いなく「人間」から逸脱してしまった怪獣達がいる。

明らかに弁護の余地がなく「全力で狂って病んでいる」のが彼等であり、この為に研究者にとっては絶好の標的になる。

やっちゃった犯罪の内容が凄まじく「異常」なので、ハナっから「異常」と断定して考察に入れるのだから、研究者にとってはタナボタだ。(言いすぎっぽいが、多分にハナっから異常と決め付けて考察に入っているフシがある。まあ当たり前だけど。

で、研究者たちは、この「怪獣」をつまみに、「どこがどう異常か?」ってことを延々と考察するわけよ。時に淡々と、時に何故か感情移入しつつ。

ま、エキサイトしないほうがどーかしてると思うが、この研究者諸兄の見解をじーっくり読んでいると、まぁ当然の帰結点として浮かび上がってくるものがある。






コイツら怪獣は、明らかに狂っている。「ビョーキ」だ。「病みすぎ」だ。

でもね。

じゃあね。

反対の「健やか」ってなに?

コイツラは明らかに限界を突破して「人間性」を放棄してるよ?。

「ビョーキ」だ。「悪魔憑き」だ。そりゃあ間違いない。議論の余地はない。

でもね。磁石にはS極とN極があるよね?ね?

だったらさ、コイツラを「S極の先っちょ」だとするなら、

「N極の先っちょ」にいる人もいるワケだよね?概念上は。

理論上はいるワケだよね?

それってどんなの?







って話になる。

当然そうなる。

そうならない道理がない。

考えない奴はどーかしてる。





で、当たり前の話、小生より早く、そーゆー結論に達し、

生涯をかけて「N極さがし」を始めた一派がある。

心理学の世界で「第三勢力」と呼ばれる研究者群である。

フロム・マスロー・オルポート・ロジャースの4名に代表される研究者たちだ。




まぁ最後のロジャースに関しては、途中で「パラダイム・シフト」とかゆーワケのわかんねえ妄言を吐き始め、「未来人がどうこう」と急激に「ニューエイジ」な方向にぶっ飛んでいってしまったので見捨てるが、他の3人の理論はかなり「マトモ」で一読の価値がある。


ぶっちゃけてしまうと、3人の理論とゆーか主張という奴は、あまり科学的ではなく、さらにエグルと心理学自体が全然科学的な学問ではないんだけど、まぁいいや。(いいのか?  ※注・最近は脳神経学と提携を結び、科学的になってきてはいます。


兎に角だな、この3人の天才は、「人間が健やかに育ちきるとこうなりまっせ」みたいな人物モデルを三者三様に提起したワケ。で、ココが重要なんだけど、これが表現は違うものの、本質的には全く一緒なワケよ。同じ特徴をもった人物像なの。加えて、これに異常な説得力がある点が味噌なのだ。



なぜって?


そりゃあなた。文明圏にいる人類が「普遍的にもつ健のイメージ」だから。
























・・・・・・・なんと、心理学とは 「  イメージ   」 だったのどぁ!。(どっかーん




















いやはや、恐れ入った。









で、バカは程々に本題。

よーするにね、健やかさに対するイメージってのは、大差ないわけよ。

高次元で「考えてる人々」の間では、イメージが極めて安定してるわけ。

これは結構スゴイことなんだぜぇ?。(なんでお前がえばるんだ?

まぁ、ちょっと考えてみりゃあバカでも分かる事なんだが、あえて説明するとだな、人の意見てのは人の数だけあって当然なんだが、こと「健やかのイメージ」ってことになると、「見事統一」されちゃうワケよ。これは当然、瞠目に値する事実ということになる。




「わお」である。



我々のような「鈍」で「愚」な一般大衆が、「片手間」で考える場合は論外として、セメントで「健やか」について賢人・哲人が死ぬ気で考え込むと、「同じ答え」がでてくる。

心理学が、宗教や哲学より「マシ」な理由がここにある。あまり馬鹿の漬け入る隙がないんである。そこは賢人のみに許された土俵なのだ。





なぜって?それはねー、「幻想」が通じない世界だから。





仮にも「科学」とゆーアカデミックな世界に存在する「心理学」には、同じ観念世界の玩具である「宗教・哲学」と比較して、「現実をモロ直視」しなければならないというハンデを背負っている。よーするに、スタート地点がいつも「リアル」なんである。



で、至極当たり前のことだが、「リアル」は誤魔化すのが非常にムズい。

ヘタに誤魔化して話をでっちあげると、後々必ず辻褄が合わなくなって破綻する。

無論、宗教のようにピンチの際に「神託」とかをカマし、信者を強引に騙すなんてカードはない。

哲学のように「で、あるべきだ」って扇情で「これでいいのだ」ってワケにいかない。

当該ブログのよーな、「困った時の暴走・暴言・大脱線」で次回に雪崩れるなんて無法は通じない。

だからこそ、心理学は信頼に値する。

まぁ、完成度は新渡戸の武士道に劣るが。(論拠はにゃい。←毎度





で、だ。

話が大幅にそれた気がするが、それはまぁサービスとして捉え、踊り子号は本線に戻る。ガッタンゴットン。






・・・・・なんの話だっけ?

カラカラ(マウス移動中

あー。

「イメージ見事統一」ね。

いやいや失敬。(失敬すぎ




で、「健やかさのイメージ」だが、まぁこれに関する具体的な記述は面倒なので省く。読むほうも退屈なので。

しかしながら全く触れずに話を進めるわけにも行かないので、かいつまんで抜粋するとだな、その人物像って奴は以下のような特徴をもつ。3人を代表し、1番分かりやすい「フロム先生」の持論を大味に書いてみよう。







フロム大先生的・健やか人間のイメージ

=革命的人間= (このコピーはどうかと思いますが、先生はこう名づけておられます)



特徴1  

真の独立を果たしている。

彼は血族・地域性・国家・階級・民族・党派・宗教に自己を埋没させることがない。



特徴2

目が開かれている。

彼は自己の属する社会やその他の社会を、人間性に基づいて判断・批判できる。



特徴3

彼は生を畏敬する。

彼は生に対して新和の状態にあり、生を成長発展させることを喜びとする。



特徴4  

彼は虚構に対立する。

彼は懐疑的な調べのなかにおり、そのために虚構と真っ向から戦うことができる。



特徴5

彼は絶望しない。

彼は未来について可能性を信じており、諦め、投げ出し、挑戦をやめることをしない。





特徴6

彼は自己の原理に服従する。

彼は自己の原理に背反する事柄については服従しないことができる。




特徴7

彼は権力を聖化しない。

権力は、絶対的なものとは無縁であり、服従の対象ではない。







てな感じである。

書いてみて気がついたが、珍念の中の「小生のイメージ」にかなり近い気もするが、まぁそんな「物語を破綻させる」ような恐ろしい話は忘れ、忘れろ。忘れるんだ。(必死


話を続ける。





一見すると「どこが健康なんじゃい」って雰囲気だが、余程の阿呆でない限り、死ぬ思いで人類史を考察し、現代を見つめ、自己を分析すると、1・2年後、「やはりこれが正しい」ことに気がつく。


シンプルだが、実際にこーゆー人がいると想定すると、なるほど。こりゃ健康である。正確には「成熟」した人間である。(さっきのことは忘れるんだぞ。いいな。


よーするに、十分に「愛され」、「健やかに成熟」すると、こーゆー人間ができあがるわけだが、問題は、こんな立派なやつは滅多にいねえという点にある。





なんでだ?






理由は簡単である。

だれも十分に愛されていないだけである。

我々は、愛されていないのだ。

========長くなったので、とうびいこんてにゅ。このまま別の板で書き上げます。
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by 201V1 | 2004-05-26 22:12 | ■愛っ
「愛」かね「愛」その3
おらおら。

午前様だぜぇ?

もぉ昼だぜぇぇ?



実は小生、

AMとPMの、どっちが「 午前で午後 」なのか、「 未だ不確か 」なんだけど、

内緒だぜ?(実話



大体、AMとPMが、なんの略なのか知らねー。

アーマード・ママ?

パンティ・マリア?

なんだって言いわい。こいっ、こいおら。よっこら。どっこいしょ。(座った







で、何だっけ?

あー。

うちのお袋が「右と左」の区別がつかないって話?

あー、そういやぁ、よく車乗ってるとき、

「こっちでお箸を持つから・・・・・・」とか言ってるね、彼女。

不憫だね。









って、そうじゃあない。

そんなあ、不憫な話じゃあねえ。

「愛」だろ。「愛」。

アイアイサー。(わかっちゃった小生。











えー、それでなんだっけ?

まず、おさらいしよう。おさらいを。(著者がおさらいの必要なサイト







えー、まず「理屈」だろ?

で、「愛」が来てだな。

「健と病」がきて・・・・

「ケダモノ犯罪者」の登場があって。

その後、なぜか「第3勢力」がきてだな、「革命的人間」にいたり、「忘れろ」。

うし、ここまではいい。いいぞ小生。(はげます

そしてだな、さっきはどうなった?

えーと。(見直し中・・・・・

あー。

「我々は愛されていない」ね。最後は。

うんうん。

ほー。

うーん。

どーすっかなー。(どうすっかなあ??









よし、まずキーワードを、落ち着いて並べてみよう。

並べて。

何か思いつくかも知れないし。



「理屈」「愛」「健と病」「ケダモノ犯罪者」
「第3勢力」革命的人間」「忘れろ」
「我々は愛されていない」
























・・・・・意味わかんねえ。

不幸の手紙か?

ケンカ売ってんのか?この文字列は?

くああ。

やってらんねえぜ。あんだよこりゃぁよお。

ふざけんなよ。

俺にどうしろっつーんだってーの。

だから嫌なんだよ長文はよぉ。

途中でわけわかんねえ事になんだよなーっ。いっつもよお。

ド畜生が。

くされブログが。

死にさらせ。























・・・・・・・・

あー。

なーんだっかよー。意味わかるわけねーだろーがよぉぉ。こんなもん。

誰か翻訳してくれよ。

暗号かよ。これ。

マジでふざけんなっつーの。

ナメック語の方がまだマシだよ。

かあああ。

おいおい。どうするよ?

どーよ?

投げる?

投げちゃう?

やめちゃう?

ちゃうちゃう?

って、それは犬。

中国人が食べる仕様の犬だぜ?

食用わんころもち、だぜ?

太ってて、ふかふかしてんの。

お徳用サイズ。

かっわいーの。

・・・・・・・・・・・・

うーん。

問題が解決しねえな。(当たり前

ま、とりあえず繋げよう。

じゃねえと始まらねえし。












= 「愛」かね。「愛」。これまでのあらすじ =





理屈好きの卓球少女・愛ちゃんが、

健康だったんだけど病気になって、

ケダモノ犯罪者としての十字架を背負うに至り

結果として第3勢力に吸収され、

革命的人間に生まれ変わるも、

すべて忘れ、

我々は愛されていない。                    完               

















ある意味、傑作。

シュールリアリズムの金字塔。

まぁ、いいんじゃねえの?これで。(そんなワケはねえ。

いーじゃんねえ。

ゆるぴて。

おねぎゃい。

おねぎゃいします。

五体倒置。


































































とゆーワケで、現場から実況ナマ中継してみました。

毎回、マジでこんな具合です。

本文より、遥かに面白いです。(爆




で、そろそろ本題に入ります。


















































・・・・・・・・・・入れませんでした。

真剣に混乱中。

シュートで著者、メダパニ。

ある意味、読み手、戦慄。





まぁ、約束は守れたかにゃー?(詐欺

という次第なので以下、次号。
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by 201V1 | 2004-05-26 22:09 | ■愛っ
「愛」かね。「愛」  その4

で、頭がなんとか落ち着いてきたので更新です。

今回は「 ちゃん 」としてます。

ダイゴローっ!ちゃーん!

子連れ狼!

子連れ女将!(こわい





皆様、今も、さっきも、ごめーんにぇ。(反省ぜろ







でね。愛ってのは健やかでそれは成熟なの。(全然わかりません






あんだよー。もー。

ちゃんと、ついてこいよなぁ。

分かったよ。ちゃんとやるよ。(最初からやれ

はいはい。わかりました。

わかったよーだ。

あっかんべー。(あっかんべえ??











で、だ。

馬鹿話はこれくらいで勘弁してやるとして、

そろそろセメント・モードである。

皆のもの。覚悟はよいか?(おめえがしろ。吊るされろ。









これまでの考察で、「愛」が「健やかさを助長」し「病みを駆逐するもの」であることは判明している。

んで、「健やかさ」が極まると、どうやら「人は成熟」するらしい。

この「成熟」という単語が意味するところは明確である。

すなわち「条件が整う」という一点をクリアすれば、人は自動的に成熟するように「元来出来ている」ということである。

しかしながら、現実には「成熟した人間」である「革命的人間」は滅多にいない。

それどころか、世の中はケダモノ犯罪者でパレードである。

なぜか?

理由は単純で「条件」が整っていないからである。

そしてその「条件」というのが、「愛」であり、

結論的には「我々は愛されていない」んだよー。

という「ジレンマ」が前回までの話である。



超、わかりやすいですね。(そうか?







つまり、前回までの話を要約すると

「愛とは革命的人間を作る為の滋養」である。ということになる。

「人を成熟させるのが愛」なんである。

まさしく真理である。







で、問題は、未だ我々が「成熟」していないという現実にある。

論理的に考えて、なぜだ?

って感じだけど、話は簡潔。

わからねえ野郎には、何度でも言ってやるが「愛されていないから」である。(何故かケンカ腰。




今回はココをえぐる。

えぐっていく。

容赦なく、えぐる。

ひねりこむように。

打つべし。打つべし。打つべし。

立つんだジョー。

である。























「燃えたよ。燃え尽きちまったよ。真っ白な灰に。」





                                         愛編・完











































おいおいおい。

ちょっとまってくれよ。

そりゃあねえぜ。

話はこれからだっつーの。

頼むぜホントに。

ひやひやもんだぜ。(俺もだ。

そういや、お袋は「力石の葬儀」にでたらしいぜ?(どーでもいい








で、「愛されていない我々」なんだが、これは全体どーしたことか?

今までの環境が不十分だったんじゃろうか?

果たして、ビンゴである。

我々は、不十分に生まれ、不十分に育ち、今日、この場にいるわけだ。










以前にも書いたが、人間を住居に喩えると、人は誕生した時点では「骨組みだけ」の状態である。で、幼年期を通じてようやく家らしきカタチを成し、少年期に左官屋・畳職人などが出入りし、青年期に家具やらなんやらが運び込まれて「人間の暮らしうる体裁」が整うわけだが、「第3勢力的」な発想だと、成熟に至った家屋には、チェ・ゲバラのポスターや、ゲバ棒や火炎瓶、ヘルメット、赤い旗、軍手、パイプ爆弾などが標準装備されてなければならないらしく、表札には当然「革命家」と書かなければいけないに決まっており、やらなければ内ゲバでフクロにされ、やればやったでとても公安が黙っているとは思えない。ほとんど怪談である。




ま、ぶうっちゃけ、「 公安?内ゲバ? なんぼのもんじゃい 」だが、そんなカサばる前時代的な異物を標準装備しても「住み難い」だけなので、当然「革命的」の意味が違う。



フロム的革命である。(最初に言え




以前のテキストと重複するが、実際には人という「家屋」は、「人の住みうる体裁」が整うまでに、台風やら地震やら手抜き工事やら地盤沈下やら宇宙砂嵐やらで甚大なダメージをこうむる。フロム的な発想に基づけば、この災害が「条件をぶち壊している」とゆーことになる。



しかしながら、よくよく考えてみていただきたい。



成人するまでに、なんの災難にも会わずに生きてこれる人間なんかいるんだろうか?皆、何かしらの地獄は見てくるものだし、それがあっての人生であり人間である。第一、保護者が誠心誠意、我々を擁護してくれようと、保護者自体が総じてパーな人類史において、歴史上、余計な真似をされずに成人を迎えた人間は絶無なはずである。フロムせんせえ。頭ぁ大丈夫ですか?



とまあ、普通はこーなる。

しかしながら、天下のフロム先生は我々凡百の徒に対し、多分こう答えるに違いない。




「あたりまえです。克己なくして革命的人間にいたる人物はいません。怒」




どうやら、「 欠陥住宅としての元服 」は当然の前提条件らしい。問題はそっからなのだ。もっと言えば、多くのサイコパスが脳に器質的な障害を抱えている点から考慮すると、我々は「骨組み自体がイカレてる可能性」を持ちながら、なおかつ「後天的にもぶっ壊れている」という身の上で、「成熟」を目指さなければならないようである。




うそだろ?   である。




つまり、人を愛することが成熟を促すことである事実を踏まえると、どーやら「他人を愛す」という行為は、「骨組みの歪んだ半壊している家屋を素人がリフォームする」ような蛮勇であるらしく、他人うんぬん以前に自宅だって全力で半壊である。



おいおいおいおい。冗談きついぜ。



しかし、これがマジなとこに、「愛」の末恐ろしさがある。

普段、小生が何の気なしに口にしている「愛してる」だの、「愛していた」などというコトバには、こんな爆弾が潜んでいたとは「今の今まで」ご無沙汰である。




いいかね。「愛」ってなあ、そーゆー意味だったんだよ。読者諸兄!!



がちょーん、である。



俺はびびった。

背筋がゾッとした。

自分で書いてて、すくんじゃっただぜ?

流石に油断も隙もねえな、和魂要塞。今の今までナメてたぜ。(マジで

戦慄しちゃったよ。おいら。

前回に続けてダブル戦慄だよ。(うるさい






とゆーワケで、他人を「愛する」には尋常ならざる覚悟が、実はいる。

みんな気がついてないけれど。(小生もさっき知りました

なんたって半壊してる家屋を素人がリフォームするんだからね。

ヘタすればリフォーム途中で家が潰れて下敷き、イコール殺される。

考えてみれば、実際そんな経験がある。というか毎回それだ。

「愛」とは自殺行為に近いのだ。

おー、こわ。








で、問題になってくるのが

実際の恋愛において、「恋人を愛さない」なんて裏技はないんであって

世の中というのは「恋=愛」である。

それ以前に友人や親兄弟も愛してるのが通例である。

よーするに、我々は人を「愛」さずにはいられない。

物凄い効率のいい「罠」である。

巧妙すぎるブービートラップだ。

万人がハマる。

で無傷では帰ってこれない。

冗談じゃない、帰してくれ。








とゆーワケで、恐るべしは= 「愛」かね。「愛」。=

いつもは安全地帯から高飛車に物事を断じている小生まで巻き込んで、物語が勝手にズンドコ進行しています。

前人未到・未曾有のテキスト・ハザードである。

勘弁してくれ。

人知を超えた人災だ。



おぎゃあ。















次回・愛編・最終回。(の予定

小生自身、ハラをくくって、サラシを撒いて、匕首のんで、覚悟を決めて望みます。

夜討ち朝駆け出入りです。

気分は正に決死隊。

和魂要塞、知らない間に正念場。(号泣
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by 201V1 | 2004-05-26 11:39 | ■愛っ
愛かね。愛。 (最終回)


愛とは、「成熟を促そうとする気持ちと、その行為」である。

それは半壊した家を、元来あるべき姿に、生き返らせる作業に似る。



それは命がけの行為だ。





すべからく人は、健やかに成熟する可能性を秘めながら、この世に生を受ける。

しかしながら、先天的・後天的に、その可能性はたびたび剥奪され、衰退の道をたどる。



人は、他者との比較論的見地における優位性の保持の為に、自ら可能性を放棄する。

何よりも、生き残ることが優先されるからである。

可能性を捨てでも、我々は自己の存在にかけて、生き残るスキルを獲得しなければならない。

それは我々を取り巻く世界が、生き残ることを意識しなければ、容易に存在を許してくれない「愛の不十分な空間である」という事実を裏付けている。




人は、自らの意思と関係することなく、他者の病が発する瘴気によって、理由もなく可能性を奪われる。

病に取り付かれた、人の皮をかぶった獣たちに対し、我々は多くの場合、無力だからだ。

我々は奪われ、可能性の芽を潰され、それでも尚、今日まで生き延び、自分の足で大地に立っている。






我々の帰属する世界は、無事に人間が成熟に至るには、あまりにも過酷なのだ。









すべからく人は、可能性を失い、今日を生きている。

そして愛とは、その失われつつある可能性を再び生き返らせることを指すのだ。










愛は、「気持ち」と「行為」という2つの側面をもつ。

少なくとも我々は平時、愛という言葉を、この2つの意味で使う。

しかしながら実質的には、「気持ち」に「人を成熟に導く実行力」はない。

人を成熟に導くのは、愛のある態度であり、言葉であり、行為である。

気持ちだけでは失われた可能性は回復し取り戻すことはできないのである。



その意味において、人を愛する「気持ち」は、犬も食わない駄物と断定することができる。




今日、我々に要請されるのは、実行力をもった「行為」なのだ。

実践を伴わない感情は、現実において「ない」に等しい。

態度としても、言葉としても、行為としても発露することのない「愛」など、「病」で満ちた世界の前では無力である。

必要なのは、実際に「人を成熟に導くチカラ」なのだ。







チカラは、静と動の顔をもつ。

「君の成熟を願っている」ことを伝える無言の態度としての「静のチカラ」と

「実際に成熟を促す」ことのできる推進力をもった「動のチカラ」だ。



この2つのうち、どちらかでも満足に操ることができれば、我々はもう少し、可能性を維持して今日に至れていたかもしれない。

しかしながら、現実には我々の誰一人として、世界に満ちた「病」の発する瘴気から、愛する人を守りきるだけの、「静のチカラ」も「動のチカラ」も備えてはいない。それが現実である。




しかしながら、それでも尚、我々は人を愛することを諦めたりはしない。

たとえ完全には瘴気の毒素から守ることが出来ないとしても、決して人を愛することをやめはしない。

我々は、確かに無能だが、無力ではないのだ。

世界が我々の愛する人を、毒をもって侵そうとするならば、我々はチカラをもってその侵攻を阻もう。勝利のない戦いだとしても、我々は安易に敗北を認めることが、許されないだけの、最低限のチカラを与えられている。







我々に残された唯一の道は戦を続けることである。

わずかな「静と動のチカラ」に全てをかけて、瘴気に奪われた可能性を、掘り起こし続けるのだ。愛する人の為に。人を愛するために。

そしてそれを覚悟したとき、我々はもうひとつの真実にも目を向けなければならない。

愛する人のため、動と静のチカラを尽くそうとする我々自身に、チカラの根源である「健やかさ」は果たして宿っているのだろうか。

万人が成熟に程遠い世界では、自分もまた、病んでいるにちがいないのだ。

人を愛そうとするとき、チカラを尽くそうとするとき、そのためには自身が瘴気を克服する必要がある。





人を愛するには、チカラを振るうには、源がいる。

だがしかし、我々もまた、瘴気に侵された病の身にあるではないか。












いみじくも、かの哲人・フロムがこの答えを残している。

彼は言った。

「克己なくして成熟に至る人間はいない」と。

すべからく人は病んでいる。

地上に成熟した人間はいない。

ならば、愛を他人に求めること自体が、事実上極めて困難な要求であることになる。

愛されることで解決はないのだ。

重要なのは気づくことである。

残された道が克己しかないことに。












泣き言をいっても、何も問題は解決しない。

成熟に至るには、克己しかないのだ。

自ら今の自分の屍を越え、先に進むしかないのである。

そうでなければ、どうして人が愛せるのか?




人を愛するには、まず愛される必要がある。

人を愛するためのチカラの源を確保するために。

しかし現実は、常に「愛されなかった自分」から始まるのだ。

黙って座っていても、誰も成熟の後押しなどしてはくれない。

自らの決意と意思で「病」を振り払い、独力で「健」を勝ち取り、一歩ずつ成熟に近づくしか他に方法はないのである。

戦うしかないのだ。











我々は、「健」を勝ち取り、成熟に至るための、長い長い戦いの旅の途中にいる。

それは生涯辿り着くことの出来ない、終わりのない旅だ。

人を愛すチカラを身につけるための旅路である。

愛されることで解決される問題が、たとえどこにもないとしても。








我々の愛は、旅人にしか届かない。

チカラには問題を解決する能力がないからだ。

旅を諦めた人間に、チカラは決して届かないのである。

愛は万能ではない。

愛は旅人のものである。

成熟に至る旅の途中にあるものだけが、愛を糧にすることができるのだ。

チカラという糧は、旅人にしか滋養にならない。

病床から立ち上がる意思をもたぬ人間には、毒になりこそすれ、栄養にはならないのである。

愛は旅人のものなのだ。









小生は、途方もない長い間、愛は万病に効くと考えていた。

自身の愛をずっと過信して生きてきた。

そうではないのだ。










けれどもどうして病床に伏す心折れた人々に、愛を注がずにいられるだろう。

我々の信じてきた愛とは、そんな無力なものだったのだろうか。









小生は、違うと思う。

愛はそれでも無力ではない。

無力ではないのだ。

確かに、糧にはならないかもしれない。

愛に、成熟へと導くチカラはないかもしれない。

けれども無意味ではないはずだ。








愛をささげた人が、

病床に伏したまま、いつか力尽きてこの世を去るとき、

そのひとの心に、一片でも「かつて愛された」という記憶が残るなら、

それはきっと全く意味がないわけではないはずだ。



自分が愛を捧げた人が、

どうして我々の死後、自らの意思で病床から立ち上がらないといえるのだ。





愛は万能ではない。

それを糧にできるのは旅人だけである。

それでも我々は病床に伏す人々を愛すことをやめない。

いつか朝日が昇り、彼が立ち上がるのを信じて。







我々は、旅を続けなければならない。

克己という名の、成熟を目指す、終わらない旅を続けなければならない。

どうやらそれが、本当に人を愛するということらしい。






大切なのは克己である。

今日の自分の屍を越えて、歩いていこう。









この星は、自転することを、ずっと昔に忘れてしまった。

天球はこれまで一度だって我々のために動いてくれたことはない。



ここで座って待っているだけでは、もう決して朝日は昇らないのだ。

東へ向けて歩いていこう。

いつか、太陽に会えるはずだ。

終わらない夜はないのだから。









歩こう。

ただ一心に、東へ向かって。
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by 201V1 | 2004-05-26 10:51 | ■愛っ
愛かね。愛。(予備板

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by 201V1 | 2004-05-26 02:40 | ■愛っ