カテゴリ:■宗教 ( 2 )
産土神と生きる1
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十代の時分、2年ほど暗黒大陸とインド亜大陸をぷらぷらしていた関係で、諸外国との比較論的見地から考えるに、我が国の宗教に対する現況の特異性には、長きに渡って文字通り身をもって考えさせられる事が多々あった。

 とゆーわけで、今回のテーマはズバリ宗教であり、冒頭の無駄に固い文章はどうでもいいとして、やおら本題に入りたい。

 ちなみに題名となっている見慣れぬ漢字は「ウブスナガミ」と読み、同じ対象を指す別の呼び名に「国つ神」「土地神」「地霊」があるが、要するにこの国の古い神様達である。後々彼らのご登場を願うことになるかと思われるが、いきなり真打に推参されても物語が破綻する為、今はとりあえず塩でも撒いて奥の方に退散しておいて頂く。

 



 現在の世界の宗教と日本の宗教の混乱を述べる前に、さしあたって小生の現在に至るまでの宗教観の経緯について言及すると、まず始めに小生は「無意識における狭義の無神論者」であった。

 ここで重要なのは「無宗教」でも「唯物論者」でもなく「狭義の無神論者」という点にあり、以下にこれらの違いを記すので読んでたも。

 
一「無宗教」

 海外における無宗教という状態は「人でなし」に近い意味をもつが、我が国で言うトコロの無宗教とは「宗教は信じないけど神様はいないでもない」というファンキーな心象世界を指し、神様に対する定義も唯一神なのか八百万の神々なのか極めてあやふやで、神様の擬人化の程度も信仰者の意識化において明確にされていないケースが大半をしめる。いわば「なんでもあり」。宗教界のバーリトゥーダー。天上の闇鍋。魑魅魍魎のごった煮であり、こんな国は我が国を除いて世界のどこにもねえという異端中の異端。

二「唯物論」

 「神も精霊も魂も電波もねえ、あるのは肉だけだ。宗教はゆるせん」というなんとも色気のない思想。ヨーロップで生まれ、のちにロシアで「宗教はアヘンだ」という名スローガンで暴走しロシア正教の信徒はイコン(※キリスト・マリアの書かれた絵)を屋根裏に隠匿後これを官憲に発見され強制収容所で酷いことになった。一方でなににつけても極端に過ぎる中国では文化大革命の名の下に数多の宗教文化財を根絶やしにした。元来は「羊飼いからの自立」を目指す立派な思想であったのだが、結果的には野生化した羊が悪夢の引き金を引くことになった。曰く、真紅の気違いメリーどうしても暴走す。

三「狭義の無神論」

 これの再定義には面倒の一言だが、あながち他人事でもないのでちゃんとやる。

 まず第一に「広義の無神論」についてだが、大味にいうと「魂と電波はあるかも唯物論」であるといえる。旧ソ連なんかは西側との情報戦の際に遠隔透視能力者なども使っていた点から考えて広義の無神論の傾向もあったように思える。中国に関してはサイキッカーの兵器としての運用うんぬん以前に、「占い」への根強い信仰と弾圧が入り乱れそれどころではなかった感が多分にする。(いつもそれどころではない中国)

 で、もんだいの「狭義の無神論」であるが、これは端的に言うと「魂と電波と精霊はいるだろうが唯一神なんかいねえ。いたらいたで殺す」という、心の狭い好戦的な思想であり、「いるかも知れない唯一神」への恨み辛みが多分に感じられ、暗い。暗鬱としていてやりきれんが、小生は神殺しを画策するやれん少年だった。




 小生が「狭義の無神論」などいうカテゴリ的には、「宗教」より「怨恨」に近いものに取り憑かれていた根本原因には、帰属する民族に現人神が存在するという現実による信仰そのものへの憎悪と、「血系」で記したように「イタコ」と「アカ」の混血というアンニュイな生まれが作用している公算も否めないが、最大の原因には学生時代の「死線上の青春」が上げられよう。しかしながらこれについては話が大幅にそれるので「死線」についてはまた後日。

 いずれにしても小生は物心ついた時には既に「無意識における狭義の無神論者」であり、長ずるに応じて意識レベルでその傾向が凶悪化の一途をたどったのである。

 で、それとはあまり関係なく、小生、はずみでアフリカに行くことになり、キリスト教とであうのである。

 アフリカのキリスト教について考える時、重要になってくるのは、彼らのキリスト教が歴史的に見てごくごく最近に植民地主義を通じてもたらされた、「搾取するものたちからの与えられた宗教」である点であり、アフリカの文化としてアフリカのキリスト教を語るのはもう少し歴史が必要である。(※エチオピア正教は除く。※ケルトの民であるヨーロッパ人が精霊崇拝のドルイド教を捨てキリスト教に改宗してから、ヨーロッパ=キリスト教の文化的符号が完成するまで300年では効かねえ※我が国のキリスト教の場合、自ら選んだという一点においてのみ語る余地は十分にある)
 
 だいいち、民族主義者たる小生は、民族性を放棄した連中がきらいだ。白人が去った後なおキリスト教を指向する意識が理解できねえ。爆

 というわけで、アフリカのキリスト教は、億千万の意味を込めて「犯罪的」といって終わりにして、諸悪の根源たるヨーロッパのキリスト教の弾劾に突入することにする。(どんどんいけ)

 キリスト教の弾劾の前に、とりあえずこの麻薬の起源についてだが、周知の通り、母体はユダヤ教であり、キリスト教徒が大嫌いなジューことユダヤ人の宗教であるが、キリストもユダヤ人であり、最早むちゃくちゃな論理だが、世界も人類史も人生も、えてしてそんなもんである。


●ユダヤ教(一神教)

 虐げられ続けている人々から最近は加害者にクラスチェンジした。十戒で有名な「強化版大山倍達・海を割る男」モーゼのおっさんが唯一神ヤハウェを後ろ盾に旗揚げ。経典は「旧約聖書」。約束の地、イスラエルをイギリスからもぎ取るやいなや、パレスチナ人に猛烈な攻撃を仕掛け、着実にジェノサイドの傾向と強めている。現在のイスラエルの状況を鑑みると、ヒトラー再評価の検討の余地があるように思えてきてしまったりして、頭がみんぐる。(※みんぐる=混乱するの意)

●キリスト教(一神教)
 経典は「新約聖書」(大味に言うと十戒に加筆訂正補足蛇足などを加味し別物に)。ユダヤ人キリストが、やっぱり神の啓示を受け(恐怖の二番煎じ)、旗揚げ。時の権力に弾圧されたあと、磔に。で、後に復活するんだが、復活したあとは信者を見捨てて蒸発してしまうとんでもない人。後に本家カトリックの抑圧された坊様たちは魔女狩りで性欲を発散したり権力と結びついて王権神授説発動、免罪符で豪遊したりやりたい放題の限りをつくし、やりすぎて宗教革命が発生。分家プロテスタントの台頭を引き起こした。ローマ法王はカトリック、坊主は神父。プロテスタントの坊主は牧師。現在では多数の宗派に分派し世界各地で時折殺しあっている。(旧ユーゴのセルビア人対クロアチア人。IRA対イギリス人などなど)また、非常に侵略・占領・支配・搾取が得意で、地球上の大陸で連中の迷惑をこうむらなかった大陸は皆無である。人類史上、最も多くの人間を殺し、最も多くの尊厳を奪い、最も多くの文化を破壊した宗教である。永遠に学習しない人々。ちなみにアメリカの裁判の証言台で「聖書に手置いて誓ってる親父」をよく見るが、異教徒の場合はそれぞれの聖書に準じたものでいいらしい。機会があれば是非、古代アステカの若者に証言台に立ってもらい、ナマの心臓に手をおいて宣誓してもらいてえ。

●イスラム教(一神教)
 唯一神アッラーの啓司をうけ、最高の預言者モハメッドが旗揚げ。キリスト教がユダヤ教の子供なら、イスラム教は孫である。最大派閥シーア派とモハメッド直系のスンニ派の2大派閥で構成。偶像崇拝の禁止・一夫多妻や男女間の社会的制約の格差などで奇異の目で見られることが多いが、多くはアメリカとユダヤ人のプロパガンダによる情報操作で、社会構造的には比較的健全な宗教圏であったと、旅人の著者は断言する。(機能的かどうかは別)もっとも歴史的にみると、インドへの侵略に際してのヒンドゥー寺院大破壊などの蛮勇も見せているので、軍事的に力をつけていた場合、今日のキリスト教のようになっていた公算も高い。これからも頑張ってユダヤ・キリスト同盟に対抗していって欲しい。負けるなイスラム。ゴー、ゴー、ムジャヒディン。


 とゆーわけで、一神教の尽くはひでえ有様であり、あかん。我が国も一神教の傾向が強まった現人神侵略15年戦争当時は近隣諸国とともにひでえ目にあった。実証的に一神教はダメなんである。それはなぜか?理由は「神を全能」に奉るからだ。(からだー←エコー)


 「造物主」「全知全能」「我らが父」という形容詞をつけ、神に「主人」としての人格を持たせ擬人化させるところから、神の名の元に「大暴走」がおきる。

 神を「主」にするから、人が人間性を放棄して「神性」に埋没するのだ。結果として人倫にもとる行為を引き起こす。一神教は「戒律宗教」である。彼らには、自身の帰属する神のルールを遵守する人間は「人間」だが、そうでない「異教徒」は「人間以下」の扱いをもって接しても「かまわない」という暗黙のルールが厳然と存在する。

 小生が「唯一神信仰」を唾棄すべきものと断じるのには、それが人に人間性を放棄させる性質を極めて強く持つからである。

 だから小生は「魂と電波と精霊はいるだろうが唯一神なんかいねえ。いたらいたで殺す」なんてことになっちゃったんであって、益々もって唯一神なんて許せん。

 これに対してアジアの2大宗教「ヒンドゥー教」と「仏教」は、先の「3大戒律宗教」と比較してどうか?ヒンドゥーは「あきらめて耐えろ教」。仏教は「救って見せようホトトギス教」といえる。ついでだから道教と儒教と神道も書いてしまおう。


●ヒンドゥー教(多神教)

 よーするにバラモン教であり、ゲルマン系の白色人種がインドの先住民族を支配・隷属させる過程において発生した「社会構造を固定」し、階級格差を宗教的社会的に不動のものにしようとする「支配者の為の宗教」である。有名なカースト(僧バラモン・武士クシャトリア・市民バイシャ・奴隷スードラ・欄外バリア)とヴァルナ(職種)によって社会進出と職業選択の自由を子々孫々に至るまで恒久的に剥奪し、世界の終わりがくる日までインド先住民族を食い物にせんとするゲルマン人の壮大な計画だ。輪廻転生思想を盾に「あきらめて耐えろ」「現世の苦しみは前世の業だ」と言い聞かせ、4000年間やりたい放題である。まーぶっちゃけ4000年も続いてしまっているため、実際インドに行ってみると、乞食とかも結構幸せそうにしていやがり拍子抜けしてしまうが、とにかく真実のヒンドゥー教とはゲルマンの統治の方法論であるといえる。ちなみにこのカーストだけは、さしものガンジーも否定できなかったほどである。さすがヒンドゥー。


●仏教(本来は神はおらず真理のみ。のちに多神教に。めちゃくちゃ)

 元来は「現世での苦しみからの解放」を主眼に、アンチ・バラモン教として発生し、東へ向かうたびに変質していった教え。釈迦族の王子シッダルタが教祖。いうなればカメレオンみてえな宗教である。大まかにわけて日本の「大乗仏教」。タイの「小乗仏教」。チベットの「密教」の三つの流れがあり、どれも全然原型をとどめていなかったりする。
 日本の仏教を見てみると、ヨーロッパのキリスト教が終始権力と結びついてろくでもないことばかりやっていたのに比べ、日本仏教は癒着する一派がいる一方で反骨バリバリの一派がいたりして汚濁と清浄がない交ぜになっている。戦国時代には武士を撃退し国をまるごと所有していたほどである。反権力という意味では世界史的にも最も過激で好戦的な宗教であろう。この点において日本の仏教徒は世界に対して堂々と胸を張る権利がある。廃仏毀釈で無力化されるまでは日本でもっとも強くメジャーな宗教であったが、明治以降は大きなパワーダウンを強いられた。極めて遺憾である。日本における主な布教戦略は総じて「極楽いけまっせ作戦」で、宗派によってパスポート取得の資格が異なる。・・・・仏教本来の教義とはまったくリンクしねえ。完全なオリジナル、もっというとデッチアゲ。お釈迦様も裸足で逃げ出す。だから間違っても海外で「ブッディスト」とは言わないほうがいい。笑(曹洞宗とか臨済宗とかちゃんと宗派を言いませう)



●道教(仙道思想)

 五行陰陽思想に代表される「方術」などの呪術的思想の強い宗教。もともとは仙人思想から出発しており、目的は不老不死である。陰陽師の阿部清明やキョンシー使いなども道教系の人々で、仏教・神道とともに日本の修験道の基礎を作った。清明の時代には日本にも「陰陽庁」みたいなのが国の機関にあったほど元来はメジャーであった。
なお、後年の陰陽道は仏教・神道の神々とのコンタクトに成功し、これら神仏の力も借りて加持祈祷を行うようになる。ちなみに著者の友人の「霊が見える人」曰く、「天皇家には今も専属の陰陽師がいるためにモヤがかかって皇族の背後霊はみえねえ」らしい。とんでもねえ税金の使い道である。怒


●儒教(道徳)

 正確には宗教というより「道徳」に近い。日本で言う「武士道」の中国・高麗版である。武士道には義・勇・仁・礼・誠・忠・考・智の8つの徳目があり、これを忘れて生きる売春宿の経営者を「忘八者」などと呼ぶが、これはもともと儒教からの借り物なのである。ただ、この8つの優先順位が武士道と儒教ではまったく違い、武士道では「義・勇・仁・礼・誠・忠」が並列して尊重され考・智が軽んじられるが、儒教では考がぶっちぎりで大切になってくる。とゆーわけで、長い長い間、日本と中国・高麗は全然仲良しになれないんであって、まぁしょうがねえや。(なげやり)


●神道(神話・精霊崇拝→現人神崇拝に変質→驚愕の人間宣言)

 北欧神話やギリシャ神話同様、神話的色彩の強い、元来は教義のない日本の原始宗教。八百万の神を要する天上の一大勢力。神話と精霊崇拝によって構成されていたため、布教力の強い仏教に次第に劣勢に追いやられたが、「有史以来の祟り信仰」のお陰で一定の勢力を保持し続けてこれた。明治以降、教育勅語などのデッチアゲで稚拙なインスタント教義を持つに至るがしょせんは武士道の改悪版であったため、これはすぐに廃れた。天皇家はこれら八百万の神々の頂点に位置する大神の直系とほざいていやがるが、ちゃんちゃら可笑しい。歴史的に2回は血が絶えており、何処かの馬の骨がそのたびに田舎から引っ張り出されてきている。ケッタイな話である。だいたいあんな死にかけのナマズみてえな面構えのピーを擁しておいて、未だにそんな妄言をのたまえる腐れた神経からして有り得ん話である。くそして寝ろ。(流石に検閲が入ります。



 とゆーわけで、ひととーりの一神教と現人神ご一行を捻じ伏せたので、気が晴れた。そろそろ本題である。(ようやく)


 ここまでお付き合いしていただいた読者諸兄には、唯物論・無神論・一神教・ヒンズー教の「危険度とオロカ度」が十二分に御理解して頂けたと思う。仏教徒の方々は、自己の属する宗派の歴史をおさらいしてからご先祖に畏敬の念をお願いします。

 で、このコラムを読んで「あああ、あたしはなんてボケナスな宗教を信じていたのかしら?もう人生おしまいよ。王姉妹ぶさいくよ。まいっちんぐマチコ先生」になってしまった人々に朗報です!!狼牙方穿です!!(ろうがほうせん※中国のヤリの名前)

 


 我々にはっ、アニミズムが残されているっ。

 我々にはっ、先祖崇拝があるっ。

 我々にはっ、祟り信仰があるっ。

 ウブスナガミがいるぅっ。(いい逃げ)





 _________________管理人、疲労の際、ダウンの為、以下次号。本日中に更新。乞う期待。
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by 201V1 | 2004-05-09 21:31 | ■宗教 
産土神と生きる2
とゆーわけで、更新です。201V1です。蛙の子はオタマです。過労の為、文章が乱れておりますが、熟考してみてもチャンとしているケースがあまりないのでこの際もぉどうでもいい。俺はなんだ?おうさ、今なら熊にだって勝てる。

 えー、何?なんだっけ?あー、ウブスナガミね。あいかわらず適当なことほざいていやがるな、こいつは。なにもかんがえとらんな。

 で、議題はようやくにして核心部分に近づいてきた次第であって、ここまでで軽く5時間くらいかかっているが、まぁいいとしよう。問題はアニミズムであり、先祖崇拝であり、祟り信仰であり、ウブスナガミである。

 先に述べたように、ヨーロッパではキリスト教が、アラブではイスラムが、大陸では儒教が、それぞれ信仰の対象となっているわけだが、彼らの場合、信仰の対象と倫理感の出所がほぼ完全に一致しており、この点が我が国のそれと決定的に異なっている点に疑問の余地はない。(なーいっ。唱和せよ)

 いずれ紙面を改めてぶち上げる「倫理観編」でも重ねて述べることになろうが、日本人の倫理観の根底には武士道があり、それに「ケとハレ」の呪いが海苔巻き状に撒きつき酷い有様になっている一方で、信仰の対象はまったく別のところにある。(ここ重要)それが「祟り信仰」(以下タタリズム)であり、このタタリズムが精霊崇拝(以下アニミズム)と相互に補完しあいながらこの国の信心を支えてきたのだ。

 

●アニミズム(精霊崇拝)

 最も原始的な宗教の一形態であり、その冷凍庫焼けの具合は巨石信仰(ストーンヘンジ・蝦夷氏など)や日輪崇拝(アステカ文明・ダイターン3など)と比肩する化石宗教である。代表的なものにネイティブ・アメリカン・アフリカン・オージー・ジャパニーズ・エゾなどなど、全部接頭詞がネイティブなところに諸々の事情とカルマを感じるが、あまり深く考えると鬱になるのでオッペケペである。
 日本とアメリカ(オージー・アフリカ含む)の精霊観には差異が認められ、前者に霊魂が昇華(足場からの開放)することで精霊化(仙人化)するケースが多い一方、後者では始めから精霊は精霊として存在している場合が多い。この背景には、「精」に対する質量の概念の有無と、ペルシャから日本にいたるシルクロード間で広く信じられている霊魂の二面性(魂魄思想)が色濃い影響を及ぼしているものと考えられるが、これについては別項にて記述しよう。(するんかい)
 
 我が国の精霊崇拝の対象として最もポピュラーなものは全国に散在する数多のご神木であり、「ケ」の関係上からか日本の精霊は動物よりも植物の方が圧倒的に多くなっている。さらに厳密に、精霊を「精」と「化生(妖・鬼・ヌシ)」に分けた場合には、純粋な精としての動物系精霊は絶無となる。植物系が有りのままの姿で(質量の増加という条件付ではあるが)「精」として受け入れられ精霊扱いされるのに対して、動物系の場合は「死して祟る」か「化生へと変じて」初めて精霊の仲間入りが果たされるのである。 
 このように一見すると冷遇されている「日本のどうぶつ」であるが、実際に精霊の上位にさらに位置する土地神を注視してみれば分かるとおりその尽くは「どうぶつ」であり、元来神性の弱パンチな「どうぶつ」が、マクロ的視点においては神界の上位にいる現実がある。こーゆーケース(弱が転じて強になる)は世界的には非常に稀なことなのだが、この原因の最右翼がタタリズムにあるんである。

 また、予断だが、精霊の階位は精の質量増大(精は集まって質量を増す一方、単独で膨れ上がる場合もある)に比例するが、擬人化の程度(人間的な意識をもって振舞う度合い)は必ずしもこれに一致しない。人が転じた氏神ですら人格を消失しているケースも多く、この点も「魂魄思想」の影響がみられる。



●タタリズム(祟り信仰)

 精霊と祟りの関連性を示す有名な言葉に「仏は祟らぬが神は祟る」というのがある。天や仏は「罰する」のであってそこには同義的な正当性があるが、「祟り」には八つ当たりの気配が多分にし、「いいひと」ですら問答無用で「祟られる」可能性が否めない。
ここが味噌なんであって、とどのつまり、「神=精霊」は時として話の通じないキチガイに近い存在として認識されているのである。よーするにパープリンであり、話し合いの余地がない以前に場合によってはまったくの冤罪で祟られて憑かれ殺される運命に我々はある。なんじゃそりゃの世界であり、これはもぉマジにこわい。

 しかも祟るご本人は猛烈な恨みソネミをもって捨て身で動いているケースがほとんどで、身に覚えのない「巨大な怨恨の塊」が、ある日空から最大戦速で降ってくるとゆー、悪夢のような物語が日本人の精霊観にはあるんである。勿論、総体としてのキチガイ精霊の構成比は決して多いわけではないが、里人と接触する精霊に言及するとそのパーセンテージは何倍にも膨れ上がり、インパクトの強烈さから、精霊に対する印象は大幅に「畏れ」に振れることになのである。
 端的にいうと、精霊にはマトモなのと気が狂ったのがいるわけだが、彼らはマトモとおもいきやイキナリ狂ったりするのが得意というか仕事であり、八百万の功性精神病患者の群れといえる。(こええ)
 
 考えてみると我々は物凄い世界で生きているわけで書いてて不安に駆られてくるが、ぶっちゃけこれほど理不尽な神々にかこまれて生きている民族も珍しい。
 このように、「祟り」あっての「畏れ」であり、「畏れ」あっての「精霊崇拝」というのが日本の宗教観であるわけだが、次項では、いよいよ「祟り」の原因である「魂魄思想」と「ハレとケ」について言及しよう。(みんな付いて来てるんだろうか?・・・・きてるわけねーだろ)


●魂魄思想(コンパクシソウ)

 中国生まれの日本育ち、「ハレとケ」の兄弟である魂魄思想とは、端的にいうと「一般に言うタマシイ」を「魂(コン)」と「魄(ハク)」に分けて捉える思想である。 魂魄思想はアジアに限らずスカンジナビアやエジプトでも信じられており、エジプトではバーとカーで説明され、死後バーは霊界に、カーは墓地に留まる。この点はコンが昇天しハクが鬼になる魂魄思想と殆ど差異がない。
 厳密にいうと「カラダという精の足場」を満たしている「霊(精)」を「心霊のコン」と「身霊のハク」とに分割して捉えているわけだが、機能的に見ると難しく考える必要はあまりないのである。
 
 魂魄思想を全力で大雑把に書けば、「コン」は健全な状態にあり、「ハク」は病んだ状態にあるタマシイのそれぞれの相であるといえる。この「健やかと病みの発想」で魂魄思想を捉えると、タタリズムと「ハレとケ」に対する視野が非常に開けてくるが、瞳孔まで開いてしまうとトランスパーソナル心理学との合致に焦点があたって脱線するので物語的には巨大に危険である。(これはまた次回、心理学編で)
 
 精霊はぶっちゃけると「足場のない精」であり、つまるところ剥き出しの魂魄そのものであるといえる。(足場がないので非実体化も可能だが、心気と身気が揃っているので実態化も容易である)つまり健やかさと病みの両面を持っているわけで、文字通り神経剥き出しの為に極めて不安定な精神状態にあり、それがためにまま怒り狂う。で、この状態で「コン」が昇天し「ハク」だけが取り残されると精霊は「荒ぶる祟り神」になり、キチガイモード全開、病みまくりの憑きまくり、もぉどおにもリンダリンダ。祟りまくりの目くるめく阿鼻叫喚の地獄絵図のお披露目と相成る。
 
とまあ、我が国の精霊たちが事あるごとに祟るのには、上記のようなメカニズムがあった次第であり、なんでこんな馬鹿を書いたのかといえば、すべては次項「ハレとケ」の為である。(長すぎる伏線。伏しすぎて床ずれ必須)


●ハレとケ(晴れと穢れ)

 いよいよというか、ようやくというか、ついに古今東西触れてはならぬアンタッチャブルに肝掴みという未曾有の大団円を迎えることになった201V1。GIダーイ。大ぴーんち。果たして収拾がつくのかどうかは神の味噌汁。だがしかしこの問題に触れずして我が国の宗教を語る道はないのである。砂をかけて仕舞いにするにはまだ早すぎる。

 まず大前提として、「すべての人が自己の全ての可能性を拡大し、活き活きと生きている状態=健やかさの極まりきった世界」である。で、「すべての人が怨恨と憎悪と復讐心とで凝り固まり、他人の苦悩だけが愉悦でたまらん快楽主義的サド状態=極限まで病んだ世界」だとしよう。これは一本の棒の極と極であり、一方が熟れた実で一方は腐れた実である。

健やかさとは「生」であり、病みとは「腐敗」なのだ。


 次に、以下のシーンを目を閉じて10秒間リアルに思い浮かべてみる。リアルに。



シーン1  満開の桜の下、あなたは朝日の光の中、涼しげなそよ風で目を覚ます。













シーン2  後手に縛られたあなたの口を、梅毒で顔面の腐った男が吸おうとする。



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 シーン1の時、あなたは果たして、息を大きく吸わなかったか?春の精気を吸い込むように。

 シーン2の時、あなたは果たして、息を止めなかったか?その時、鼻をしかめ、少しでも男の息を吸うまいとはしなかったか?


 シーン1は「晴れ」のイメージである。そしてシーン2は「穢れ」のイメージだ。


「生」は「晴れ」であり、「腐れ」は「穢れ」である。


「晴れの日」、人は息を吸う。それを取り込むために。

「穢れ」に対し、人は鼻をしかめ、毒気を吸うまいとする。



 現人神と部落問題に基づく、日本人の心の奥底に根付いた忌まわしき偏見は未だ根強く、それがゆえに、「ハレとケ」のもうひとつの側面を見逃すことは極めて容易い。

 世界に「ハレとケ」が厳然と存在するように、「ハレとケ」の中にもまた「ハレとケ」がある。

 日本人は「ケ」を何よりも恐れた。人から人間性を剥奪する「災いをなすケ」を恐れ、「祟り」を恐れ、それがために精霊を奉り、一人一人が「ケ」の拡大を抑制せんとしてきたのだ。

 それは裏返せば、決して投げ出すことのない「生」への希求であり、「健やかさ」に対しての不退転の決意である。

 

 日本人は、自然に対する感謝の念は失わなかったが、根源的な意味における宗教を今日までついにもたなかった。

 あったのは、折れない心と、晴れの日へと進む揺るぐことのない意志である。

 神仏に救いをもとめず、どこにも組せず、ウブスナガミとの静かなる闘争に生涯をささげた男達がいた。

 この国には、次代の為に世界を変えようと生き抜き、倒れていった女達がいた。

 


 精霊崇拝は信仰か?

 祟り信仰は宗教か?

 
 それは、抜き差しならぬ状況下で尚も襲い来る「穢れ」に抗う人々の血の歴史だ。


 


 問われれば答えよう。


 「私は、ウブスナガミと生きていく。」
 
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by 201V1 | 2004-05-09 21:28 | ■宗教