<   2005年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧
死ぬの生きるのしゃらくせえ

 後日談になりますが、

 講演、

 ブチ上げて参った。




 動員数500.

 ひゃっほう。

 相当の数である。



 
 稼業柄、

 見知らぬ人々の前で、

 好き勝手な寝言を並べるのは、

 まぁ、

 慣れているとはいえ、

 500という、

 軍隊で言えば中隊規模の聴衆を前に、

 一発ブチ上げるのは、

 生涯実に2度目であり、

 滅多なことではないんである。









 前回の、

 生涯初であった中隊規模を相手のパフォーマンスは、

 災害復興支援時代のコンサートにおける、

 舞台監督兼MCというポジションでの、

 火事場のような混雑の中での業務であり、

 ようするに、

 作業に近かった。

 





 如何にして、

 ミュージシャン連中が演奏準備を整えるまでの「 間 」を、

 もたせるかに注力し、

 それに力を尽くす業であり、

 問われたのは、

 小生の「 芸人 」としての資質と根性であり、

 エンターテイナーとしての機能と、

 アジテーターとしての求心力を発揮する

 装置としての役割であった。




 

 今回の講演は、

 それとは完全に性質を異にするものであった。



 

 学生への鼓舞を要請されての静岡入りであったのだ。




 講演の手配師である学校サイドの意図は、

 学生への「 生き方 」の指南であったが、

 小生はこれに関して完全な門外漢である。





 生き方を、

 夢だと、

 仮定するならば、

 小生のそれは、

 自らを検体にした人体実験の途中にあるもので、

 結果はもちろん、

 断定的に語るに耐えるこうだという確証は、

 半生丸ごとをひっくり返しても、

 微塵も発見ができないのが実態であり、

 それをどうこう抜かすのは、

 俺が死んでから、

 どっかの他人が片手間でやる仕事である。

 





 夢を語れというならば、

 高らかに生き方を謳うが、

 先方の要請は、

 生き方そのものについて言及し、

 学生達に活力を与えせしめることであった。

 

 

 生き方を語る。

 不遜だと、

 小生は感じる。





 学校サイドを非難するつもりは毛頭ないが、

 小生の認識では、

 高校生という15歳から18歳くらいの年代は、

 世の大人が思うほど、

 馬鹿ではない。

 様々な任務を課した場合、

 遂行する能力には著しく欠けるのが一般だが、

 経験は浅くとも、

 無駄に年を重ねた大人より、

 余程骨のある手合いは珍しくも無い存在だろう。





 小生は、

 自身が彼らと同じくらいの時に、

 考えていた様々な事柄と、

 向き合っていた世界と、

 感じていた気持ちを、

 今尚、

 鮮やかに思い出すことができる。




 
 世界は、

 醜く、

 汚泥に満ち、

 常に腐臭を放っていて、

 淀んだ空気に満ちていた。

 希望は自分の中にしかなく、

 魂は、

 憎悪で破裂寸前まで膨張しながら、

 赤く赤く燃えていた。

 刺し違えることができるという可能性が、

 自分の全てだった。





 小生が今日、

 世の中を、

 希望的に見られるようになったのは、

 世界が美しいからでも、

 腐敗をやめたからでもない。

 単純に、

 汚泥の海を、

 自らが上手に泳げるようになったからであり、

 泳ぎ続けるに足る価値を、

 存在することに見出している結果に過ぎない。






 その意味で、

 程度の差こそあれ、

 彼ら若者のいる世界は、

 当時小生が棲んでいた世界と、

 その景色は極めて似るに違いないのだ。






 大人よりも遥かに、

 力なき若者達は、

 世界の、

 ありのままの姿を、
 
 その目に焼き付けながら、

 日々を暮らし、

 青春を、

 終わりに向かって、

 つき進んでいる。





 若いということは、

 地獄に等しい。







 大人になるということは、

 地獄との、

 付き合うことを学び、

 地獄で尚、

 笑う術を身に着けることに似るが、

 小生は、

 そんなことは、

 話したくなかった。

 



 

 

 



 話したかぁ、ねえだろう。

 そんな悪夢みてえな話。












 生き方なんぞ、

 そもそもが、

 選べるような代物じゃあねえのだ。







 思い通りに生きることなんぞ、

 誰にもできはしねえ。






 人間は、

 思い通りにならない人生を、

 生きていくのだ。

 奥歯を削りながら。




 生き方なんぞ、

 選べるものか。





















 頭に来たまま、

 講演をするべく、

 静岡に向かった。






 「 生き方の講演を・・・・・ 」

 人の良さそうな先生の言った台詞が、

 耳から離れず、

 苛立ちが頭蓋の中を反射する。






 「 何様のつもりだテメエ 」





 先方に、

 悪意が微塵も無いことを、

 十分に理解しながら、

 腸は、
 
 煮えくり返っていた。





 餓鬼をなめるんじゃあねえ。





 



















 余暇に、

 仕事の合間に、

 静岡への列車の中で、

 何を自分が話せるか、

 語るべきは何なのか、

 考えたが、

 どうにも結論がでなかった。





 答えが出たのは土壇場であり、

 講演15分前の、

 一服の煙草である。
































 「 在り方について話そう。」

 小生は、

 そう、

 思った。



















 小生は、

 断言できる。

 人間は、

 生き方を選べやしねえ。

 それでも、

 在り方は、

 選ぶことができると。

 












 
 





 生涯の中で、

 自分が向き合わねばならない現実の全ては、

 その始まりを、

 我々の手の届かない場所を起点にする。

 不可避の現実・出来事に対し、

 我々は、

 それを起こるか否かという意味において、

 選択する能力を、

 完全に奪われて誕生し、

 生きて死ぬ運命にある。

 すべからくだ。

 




 その意味で我々は、

 運命の奴隷であり、

 更には、

 状態を希求する自我に翻弄されるに至っては、

 魂は恐怖の傀儡に等しい。







 運命に囚われている限りは、

 自我の抱く恐怖に支配されている限りは、

 魂はその真価を発揮し得ないままに、

 霧散する。

 






 鎖を断ち切るには、

 傀儡の糸を断ち切るには、

 生き方という、

 状態への一切の希求を放棄し、

 在り方という、

 その存在の性質に、

 成すべきことを成す為に、

 己の魂魄をかけて、

 全霊を注ぐ意外に手段は無い。






 






 我々はただ、

 成されるべきことが、

 成される為に存在し、

 成すべく事と成す為に、

 ここにいる。








 その意味で、生死ごときは、もはや問うところではない。








 生きるの死ぬのはしゃらくせえ。













 人は、

 生き方を選ぶことも、

 未来を選ぶこともできやしねえ。

 成すべきことを成す為に生まれるからだ











 




















 
 
 

 

 

 

 

 
 












 小生は、そういうことを、1時間に渡り話した。

 これから、

 クソみたいな現実と戦う運命にある、

 10代の連中に。

 

















 講演が終わったあと、

 多くの質問があった。

 まぁ、

 考えられねえことではある。

 一人なんぞは、

 講演が終わったあと、

 応接室にまで乗り込んできて、

 カチコチに緊張しながら、

 将来の助言を求めに来てくれた。













 果たして、

 話してよかったと思う。









 己の、

 魂魄にかけて、

 人が、

 成されるべきことを、

 成すがために、

 存在することを選ぶとき、

 その
[PR]
by 201V1 | 2005-12-28 02:54 | カテゴライズ前・生ログ
引力商店


 夫婦で買い物に行くと、

 それぞれが必ず足を止める商店がある。





 小生の場合、

 それは、

 古物店(非実用的なものがたくさん)であり、
 
 刃物店(ご禁制サイズが並ぶ)であり、

 軍放出品店(復刻含む)であるんだが、

 嫁さんの場合、

 それは乾物屋である。





 衣料や家電に関しては、

 我が家は、

 プロパーの製品の粗利率の高さに

 夫婦双方が知悉しているが故、

 その殆どをネットを介し、

 価格コムやオークションを効率的に運用して

 現物をゲットしているが、

 食い物に関しては流石にプロパーで買っている。

 


 
 

 

 

 
[PR]
by 201V1 | 2005-12-27 00:24 | カテゴライズ前・生ログ
記憶に残る映画

 なんつーか、

 小生は、

 映画には、

 相当に甘い。






 生半可なストーリーと、

 適当な設定と、

 いいころ加減な展開で、

 これまで幾度も号泣してきた。






 しかしながらである。

 「 らくだの涙 」

 こいつにゃ全体、

 戦慄した。

 





 滅茶苦茶である。





 物語のあらすじは、

 モンゴルの荒野で暮らす4世帯同居型遊牧民の所有する、

 数多くのラクダのうち、

 一匹のメスラクダが、

 難産の末白い子ラクダを産み落とすものの、

 なんだかどうした、

 子育てを放棄、

 乳をあげない。

 さあ困った。

 のこったのこった。

 ここが起点であり、

 四世帯家族は、

 母ラクダを縄で拘束して、

 授乳を強制させたりするんだが、

 うまくいかない。(これが承である。

 で、

 それとは全く脈絡なしに、

 全ての作戦が失敗に終わったのと同時期に、

 唯一の家電製品であるラジオの電池が切れたため、

 数十キロ離れた市場のある県庁所在地へ

 電池を買わせに、

 子供二人をお使いに出すんだが、

 この際、
 
 家長であるヒイ爺さんが、

 母ラクダの育児放棄を打破する「 切り札 」に、

 SOSを告げる手紙を、

 お使いの子供二人に委ねるんである。(転だ

 で、

 問題の「 切り札 」なんだが、

 これが街の音楽の先生で、

 変な弦楽器の達人であり、

 依頼を受けて四世帯遊牧民のもとにやってきた達人は、

 遊牧民の望みに応え、

 母ラクダと子ラクダの前でメロディを奏でる。

 すると、

 何故か母ラクダは号泣し、

 育児拒否をやめ、

 子ラクダにオッパイをあげ、

 起承転結が完成。

 大団円になっちゃった。(我々夫婦が呆然とする眼前で)

 で、

 エピローグでは、

 何の説明もなしに、

 パラボナアンテナに直結させた、

 太陽電池を動力にするテレビを、

 四世帯遊牧民がゲットし、

 めでたしめでたしみたいな雰囲気を、

 「 感じろ! 」的な映像が垂れ流され、

 強引にスパーに以降。

 





 

 

 







 
 まじかよモンゴル人。








 まぁ、

 なんつうか、

 この作品、

 ドイツの映画学校の、

 卒業記念のそれだそうなので、

 モンゴル人の頭の具合よりむしろ、

 作品の分裂症的ケレン味に関しては、

 はっきりいって、

 撮ったゲルマン民族の膿んだ脳によるところが大なんであろう。







 ドキュメンタリー映画を撮ろうとしてモンゴルに行ったのはいいんだが、

 育児拒否の母ラクダに遭遇した為、

 途中でそれを題材にしたストーリー物に作品の性質が変容したと、

 制作秘話にあるが、

 出来上がった作品の実際は、

 やらせだらけでドキュメンタリーのもつ報道性は絶無でsり、

 ノンフィクションとしては題材自体がしょっぱく求心力が脆弱で、

 フィクションを完遂するには作り手の力量が圧倒的に足りない、

 「 反吐のもんじゃ焼き 」みたいな感じに落ち着いたといえる。

 
 
 



 小生は、

 概して動物全般を愛玩目的で認知するが、

 これを機に、

 やおらラクダが大嫌いになりそうである。

 少なくとも、

 しばらくはラクダを連想するものを、

 視界に入れたくないのは確かであり、

 これはそういう気分に人をさせる映画であった。








 ドイツ人は、

 まぁ、

 そういう民族である。





 革新的な飛行機や、

 新時代のロケットを作り上げる一方で、

 ナチスとか、

 らくだの涙とかを、

 世に出す。






 まったくもって最悪の映画であり、

 2005年度中にこの地雷を処理できたことを、

 幸運と捉えることに努めんと思う。





 こんなもんを1月1日に観た年にゃあ、

 1年は終わりだ。






 










 12月26日。

 「 ラクダの涙 」を観た後、

 ネットで、

 この映画に関する、

 好意的なレビューの氾濫を目の当たりにして、

 筆を執った。

 反吐のもんじゃ焼きも、

 食う人間によっては、

 美味に感じるものらしく、

 いよいよ世間が信じられねえ。





 
 ※ この映画は、

   プロパガンダによく用いられる手法によって、

   製作されたものと、

   和魂要塞は判断する。

   明らかに「 感動 」をさせようとして、

   恣意的に事実を歪曲・誇張している箇所が随所に見られ、

   醜かった。

   製作者サイドの魂がである。



   出演しているジモッチーの演技は、

   見事に大根でその点ではリアリティがあったが、

   演技や台詞が用意されているドキュメンタリーという実態は、

   断じて容認すべきスタイルではなかろう。



   ネット上のレビューでは、

   結構な絶賛を受けている「 らくなみ 」だが、

   この映画を、

   ある種のプロパガンダ映画と捉えた場合、

   日本における常民が、

   60年前のあのころと、

   本質的に同じであることが伺われ、

   まぁ、

   さらに胸糞が悪くなった。




   2段重ね、

   3段重ねで胸糞の悪くなる点において、

   この、

   らくだの涙なる映画は、

   流石はドイツ製だけあり、

   ナチスのホロコーストに通じるものがある。




   
   モンゴルの景色がどんなに美しくても、

   この作品には、

   価値は無い。
   

   

   
[PR]
by 201V1 | 2005-12-26 23:32 | カテゴライズ前・生ログ
和魂PC
<<CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブが書き込み可能デバイスとして認識されない

対象製品 和魂PC
文書番号 : 316529
最終更新日 : 2004年12月28日
リビジョン : 2.0
重要 : この資料には、レジストリの編集方法が記載されています。万一に備えて、編集の前には必ずレジストリをバックアップし、システムの復元方法を理解しておいてください。バックアップ、復元、および編集方法の詳細については、以下の「サポート技術情報」 (Microsoft Knowledge Base) をクリックしてください。
256986 (http://support.microsoft.com/kb/256986/) Microsoft Windows レジストリの説明
現象
CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブにデータを書き込もうとしても、CD-ROM ドライブにデータを送るオプションがないことがあります。

CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブのプロパティを表示すると、[CD ドライブ (drive_letter:) のプロパティ] ダイアログ ボックスに、[書き込み] タブが表示されないことがあります。drive_letter は CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブの文字です。

注 : [CD ドライブ (drive_letter:) のプロパティ] ダイアログ ボックスを表示するには、[スタート] ボタンをクリックし、[マイ コンピュータ] をクリックして、対象となる CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブを右クリックして、表示されたショートカット メニューの [プロパティ] をクリックします。
原因
この問題は、ドライブが書き込み不可能なデバイスとして誤って検出された場合に発生する可能性があります。
解決方法
この問題を解決するには、CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブを書き込み可能ドライブとして認識するように、Microsoft Windows のレジストリを編集します。この操作を行うには、次の手順を実行します。 警告 : レジストリ エディタの使い方を誤ると、深刻な問題が発生することがあります。最悪の場合、オペレーティング システムの再インストールが必要になることがあります。マイクロソフトは、レジストリ エディタの誤用により発生した問題に関しては、一切責任を負わないものとします。レジストリ エディタは、自己の責任においてご使用ください。
1. [スタート] ボタンをクリックし、[ファイル名を指定して実行] をクリックします。
2. [名前] ボックスに regedit と入力し、[OK] をクリックします。
3. 次のレジストリ サブキーを展開します。
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\CD Burning\Drives
4. [ファイル] メニューの [エクスポート] をクリックします。
5. [ファイル名] ボックスに backup of drives key と入力し、[保存] をクリックします。

注 : 保存した backup of drives key.reg ファイルをダブルクリックすることにより、このレジストリ サブキーを復元できます。
6. レジストリ エディタの左ウィンドウで、[Drives] の下の [Volume{GUID}] をクリックします。GUID は 32 文字の 16 進数のグローバル一意識別子です。

注 : コンピュータに複数の CD-ROM ドライブがある場合、ドライブごとに追加の [Volume{GUID}] フォルダが表示されます。
7. [レジストリ エディタ] ウィンドウの右ウィンドウで、[Drive Type] をダブルクリックします。
8. [値のデータ] ボックスに、ドライブの種類に応じて 1 または 2 と入力し、[OK] をクリックします。

ドライブの種類は CD-R の場合 1 で、CD-RW の場合は 2 にする必要があります。
9. レジストリ エディタを終了します。
10. [スタート] ボタンをクリックし、[マイ コンピュータ] をクリックします。
11. [リムーバブル記憶域があるデバイス] の下の CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブを右クリックして、表示されるショートカット メニューの [プロパティ] をクリックします。
12. [書き込み] タブが表示された場合、ドライブは Windows によって書き込み可能デバイスとして正しく認識されています。
13. [キャンセル] をクリックします。

注 : コンピュータに複数の CD-ROM ドライブ、DVD-ROM ドライブ、または CD-RW ドライブがあり、[書き込み] タブが表示されない場合、誤ったドライブが Windows レジストリで "書き込み可能" として構成されている可能性があります。この問題のトラブルシューティングを行うには、次の手順を実行します。 a. 手順 1. ~ 9. を実行して、前の手順で値を変更した [Volume{GUID}] フォルダの Drive Type 値を編集します。
b. [値のデータ] ボックスに 3 と入力し、[OK] をクリックします。

ドライブの種類の値 3 は、ドライブが標準 CD-ROM ドライブであり、書き込み可能でないことを示します。
c. [レジストリ エディタ] ウィンドウの左ウィンドウで、次の [Volume{GUID}] フォルダをクリックします。
d. 手順 7. ~ 8. を実行して、ドライブの種類に応じて [値のデータ] エントリを 1 または 2 に変更します。
e. レジストリ エディタを終了し、手順 10. ~ 12. を実行して、CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブのプロパティ ダイアログ ボックスに [書き込み] タブが表示されることを確認します。


詳細
この手順を実行しても、問題が解決しないこともあります。この方法は、CD-R ドライブまたは CD-RW ドライブが Windows XP で機能するにもかかわらず、何らかの理由により誤って認識されている場合の単なる回避策です。ドライブがハードウェア互換性リスト (HCL) に掲載されていない場合は、このレジストリ設定に関係なく、組み込みの CD コピー機能が動作しないことがあります。









 ジルが「 これを読め 」と教えてくれたサイト。

 レジストリを直にいじれということらしく、

 下手をすると、

 この文章が、

 和魂要塞からの最後の記事になるかもしれず、

 電脳の海で出会った皆に、

 念のためにお別れを言っておく。




 ・・・・・・

 今、

 なんか、

 脳裏に、

 「 ジャワカレー 」という文字が躍ったが、

 まぁ、

 そんな遺言もどうかと思うので、

 さしあたり、

 お別れーとでも言っておこう。





 いざ、

 レジストリの海へ!





 生還したらまた会おう!
[PR]
by 201V1 | 2005-12-20 22:03 | カテゴライズ前・生ログ
さいきんのできごと

 できごとってゆーか、

 できものが、

 悪化した。
























 DI である。( あえて変換しねえ



















 思えば、

 小生が、

 DIを、

 罹患した初めては、

 アフリカは、

 かのフレディ・マーキュリーが生まれた島、

 ザンジバル(戦艦ではない方の)である。








 ようするに、

 小生の、

 臀部中心、

 奥深くに潜伏しているのは、

 タンザニア産の、

 突発型再発機能付腫瘍なんであって、

 そらぁ、

 もお、

 頑固。

 治しても、

 治しても、

 再び蘇る。

 不死鳥のように!








 で、

 最近、

 とても痛かった。








 その前は、

 PCがぶっ壊れていたことに気づき、

 ジルに相談したところ、

 ドラマが今クライマックスとかいう要らぬ情報を教えてくれ、

 あげく、

 「 解決不能 」とか言われ、

 焼かなければならぬCD-Rが焼けぬまま、

 しょうがねえからUSB記憶デバイスに画像を叩き込み、

 送らねばならぬところに送り、

 PCの故障はなかったことにしした。







 で、

 DIであり、

 今日の寒さであり、

 今日の現場は、

 中現場って聞いてたのに、

 もろ外であり、

 ビル風が鬼であり、
 
 俺の心は折れ、

 売り上げはかつて無いほどの体たらくであり、

 泣きたかった。







 かれこれ、
 
 4年くらいこの業界におり、

 決戦販売士としてはちったあ名が知られるようになったと思いきや、

 この売り上げ。

 





 





















 近況はこんなんであるが、

 今日の寒さでDIが完治し、

 ふと思う。



















 売り上げなんてどうでもいいから、

 DIが治って良かったと。















 やはり、

 健康が一番である。














 売り上げとか、

 小生は、

 まるでどうでもいい。(どかん









 男の大事はケツの穴である。








 広さとか、

 狭さとかではなく、

 無事かどうかだ。










 




 嗚呼、

 おしりが、

 痛くないって、

 すばらしい。
[PR]
by 201V1 | 2005-12-17 22:57 | カテゴライズ前・生ログ
戦争と兵

 さて、

 まずは前回の記事の、

 意味不明なトラックバック、

 馬房生活のインデントについてだが、

 ジルの野郎が、

 「 インデントの宗派 」について語っておいたので、

 小生が帰依している宗教、

 猪木ないしバズリクソンについて、

 一筆書こうと筆を執ったんだが、

 フライトジャケットの歴史を書いているうちに、

 やおら目頭が熱くなり、

 バズリクソン派とか、

 途中からどうでもよくなってきて、

 兵士達に挽歌を捧げるに至った次第である。(滅茶苦茶





 
 で、28からの布告文が届き、

 小生は再び筆を取る。





 「戦争の美化」という言葉で、

 英霊達を讃える歌を世界から奪う、

 妄信的反戦論を、

 木っ端微塵に粉砕する為に。
























 戦争の美化と、

 兵士への挽歌を、

 明確に隔てる、

 名もなき戦士達の墓標を、

 徴兵から免れた世代による罵詈雑言から守るための、

 論理による万里の長城を、

 今日、

 言霊をもって、

 ここに築かんとす。










 ============================



 戦争は、

 民族や血族の、

 生存の為の、

 外交手段であり、

 有史以来継続して維持されてきた、

 人類の常態である。(異論がある方、人類史の再確認ドゾ





 したがって、

 まず第一に、

 平穏な状態が実現される為には、

 その背景に、

 何者かの努力がある。(自然休戦なんてのは妄想だ。





 平穏は、

 互いに様々なカードを切り合いという、

 外交上の協調の賜物であるかもしれないし、

 戦えば得るものよりも失うもののほうが大きいという、

 予想される対抗暴力が生む抑止力の産物かもしれない。





 いずれにせよ、

 自分達の帰属するコミニティに、

 利益をもたらさないものの全ては、

 結論的には、

 その生死は問うところではないのだから、

 平穏という状態を成しえるためには、

 自身の帰属するコミニティの存続(個人から果ては全人類)の為に、

 戦争状態への投入を阻止しようと言う、

 並々ならぬ努力が要る。

 


 それでも戦争は起こる。

 ずっとである。




 人類の常態である戦争においては、

 それに参加する人間の多くが、

 平時に自分を縛っている、

 社会性というタガを、

 外すことで、

 自身の帰属するコミニティの存続のために、

 脅威となる敵対者を殲滅・無力化し、

 異なるコミニティに帰属するものから富を初めとした様々なものを奪う。






 人類の常態である戦争状態においては、

 全人類史を通じ、

 如何なる文明にかかわらず、

 原則、

 我々は、

 容赦をしない。







 無抵抗の者の殺害。

 弱者からの略奪。

 尊厳の蹂躙。

 あらゆる行為が、

 自身のコミニティの存続と言う、

 大義の名の下に、

 原則、
 
 肯定される。







 人類の常態とは、

 そういう、

 地獄のような絵なのである。




 こんな世界は、

 誰も望んじゃあ、

 いない。




 だからこそ、

 人類史は今日まで発展を遂げてきた。



 
 地獄のような常態という、

 獣の業から開放されようと、

 あがき続けてきたのが、

 人類の歴史なのだ。








 古くは、

 公然と人権が無視され、

 奴隷売買が横行した時代があった。

 奴隷と聞けば、

 アフリカ黒人しか思いつかない人々も多いだろうが、

 日本でも、

 ユーラシア大陸でも、

 アメリカ大陸でも、

 どこの国にも奴隷制度ってなあ、あったのだ。

 



 身分上の差別が厳然と存在し、

 覆すことが不可能な、

 出自による貴賎が運命を決する時代があった。

 

 



 強者による、

 弱者からの搾取が、

 傲然と行われた時代があった。

 その時代、

 弱き民族は、

 言語や文化まで、

 根こそぎ奪い取られ、

 文字通り殲滅されたのだ。









 寝ぼけてもらっちゃあ、困るぜ馬鹿共。

 世界史勉強してんのか??

 ほんの少し前までは、

 平時もまた、

 この星丸ごとが、

 地獄だったんだ。






 戦争の結果としての、

 地獄みたいな世界が広がっていたんだ。







 まぁ、

 なんつうかよ、

 反吐の出る話だが、

 核家族化がここまで進んじまってな、

 親子の会話も殆ど世間じゃねえっつー時代だ。





 日露・日中戦争や、

 1次大戦や、

 2次大戦や、

 それぞれの戦中と、

 戦前・戦後の、
 
 いろんな国が、

 どんなだったかを、

 一族の歴史として知らねえ昨今じゃあ、

 今日の日本と、

 今日の世界が、

 どんな犠牲の上に立っているかを、

 気にもしねえでいられるのも、

 仕方ねえのかも知れねえ。

 




 世界が、

 何によって大きく変わり、

 変えたものが起きたのが、

 何故だったかを。






 戦争で世界は覆る。

 時により最悪に。

 時に少しだけマシな世界に。

 てんで見合わない犠牲を払って。

 


 


 最初ッから、

 今の世界があったかのような、

 うすら寝ぼけた感覚で、

 世界をひっくり返す為の戦に、

 命を散らした軍人達への、

 感謝の「 カ 」の字もありゃしねえ。

 世も末だぜ。

 





 戦争ってなあ、

 人間を、

 悪鬼羅刹の常態に還らせる、

 狂気の渦潮みたいな局地である。





 当然、

 それ自体が無数の惨劇と不幸を生み、

 悪の塊みたいなもんだ。





 それでも戦争は、

 確かにそれによって、

 世界を大きく還る。





 昨日まで、

 平穏に暮らしていた人々から全てを奪う一方で、

 長きに渡り、

 権力に簒奪された自由を人々に取り戻すこともある。

 よきに転ぼうと、

 あしきに転ぼうと、

 その過程には、

 戻ってこない億千万の犠牲がある。







 戦争には、

 侵略・敵対・抵抗の3種類があるが、

 これを全部一緒くたにして「 反戦 」を叫ぶことほど、

 馬鹿で醜く腐った性根の振る舞いはねえ。






 そんな奴は、

 空前のお調子者である。




 奪われたこともねえやつが、

 得意顔で反戦を口にするんじゃねえよ。






 全ての戦争は、

 その規模の大小や、

 時代や状況に関わらず、

 自身の帰属するコミニティの保護を目的に計画され、

 実行に移される。





 はっきり言っておくが、

 反戦を、

 漠然と叫ぶことは、

 まったくの無意味であり、

 小生の価値観から言えば、

 その茫漠な意識は、

 ナンセンスの一言に尽きる。




 人類の常態たる戦争を、

 その原因の追究をせずして、

 平穏な世界から、

 賢者面して「 反戦 」を喚くのは、

 破廉恥を通り越して醜悪ですらある。





 どんな時代でも、

 どんな国でも、

 どんな事情でも、

 戦争を実際にやる連中は、

 やるだけの理由があってやるんである。

 判断上のミスだとか、

 元首の無能だとか、

 そんな瑣末な問題を超えたところで、

 戦争はいつだって、

 守る為に始まり、

 滅ぼすことが優先される。

 エゴしかないのが人間の常態なんだ。






 戦争ってなあ、

 そういうもんなのだ。(理解できなければよい。





 精々、

 安全な時代と、

 安全な国から、

 戦火の只中にある人々へ、

 反戦を叫べばよかろう。






 戦うには、理由があるんである。

 



 

 人間はいつだって、

 狂気と戦っている。

 




 理性と狂気のハザマでしか、

 俺達は決断をできない。





 完全な正気なんてのは、

 この世界にゃあ、

 あいにく存在しない。

 だからこそ、

 人は戦争をこれからもずっと続けるのだ。

 




 累々たる屍の果てに、

 つかの間の平和は築かれても、

 いつかまた、

 地獄の常態へ還っていく。




 次に進む為に。

 約束の時代を取り戻す為に。

 それが人類史だ。

 歴史の転換点においては、

 大地は必ず流血を欲する。






 反戦を叫ぶのは、

 テメエが戦火に巻き込まれて叫んで、

 ようやく意味を持つ。

 もっともね、

 遠く離れた異国の人々と、

 意識を共有できて、

 自分も戦火に晒されていると、

 微塵の欺瞞もなく感じれるようなら、

 平和な国から叫べばいい。

 聖人を名のったっていいぜ?

 いつだって、

 聖人たちは銃をとらねえ。

 

 

 

 反戦ってなあ、

 便利な言葉だよ。

 叫べばただそれだけで、

 道徳人だ。

 だがね、

 あいにく俺ぁ、

 儒学者なんざ屁とも思ってねえ人間だ。

 言葉なんぞじゃだまされねえ。

 



 本物の反戦主義ってなあ、

 クソみたいな侵略や、

 侵犯をしてきやがった、

 始めやがったクソ野郎の、

 息の根を止めて帳尻を合わせてやるために、

 「 戦争なんて馬鹿げてるぜ 」と叫びながら、

 銃を手に、

 その戦争を終わらせるのに手伝うことだ。

 戦争ってなあ、

 そういうもんだ。

 安全圏から、

 したり顔で、

 「 反戦 」なんて叫んでも、

 うすら寒くて吐き気がするぜ。








 戦争さんざ、クソ喰らえだよ。

 だがね、

 俺ぁ、
 
 戦争は最低だとは思うが、

 反戦なんてなぁ、

 絶対に叫ばん。

 反戦なんざぁ、

 口に出して言うほどのもんじゃねえからだ。

 


 あんなもんを望んでやる馬鹿は、

 餓鬼を除いてそうそういねえ。

 まともなら、だれも行きたくねえトコだ。







 だがね、

 いざ戦争が始まれば、

 狩り出されるのは、

 どこにでもいる若者なんだよ。





 

 若者達が狩り出される戦場は、

 歴史とともに変容してきた。

 



 古くは白兵戦。

 銃の登場による銃撃戦。

 南北戦争に見られる阿呆みたいな撃ち合い。

 長く続いた熾烈を極める塹壕戦。

 拠点を奪い合う戦闘。

 洋上の艦隊戦。

 戦闘機による空戦と爆撃機による空爆。




 犠牲者は、

 軍人はもちろん、

 民間人も含まれる。




 条約なんざ、

 あってないようなもんである。




 銃弾や爆薬で粉微塵になるだけが、

 戦争の死に方じゃあない。




 文字にしたくねえような方法で女子供が殺され、

 無抵抗の捕虜が私刑によって死んでいく。

 無力化した後は、

 敵に生殺与奪権のすべてがある。



 当たり前だ。

 戦争ってなあ、そういうもんなのだ。

 互いが無慈悲に殺し合い、

 奪い合う。

 殺し合いってなあ、

 そういうもんだ。

 食い止めるには、

 相手を根絶やしにするしかない。

 だからこそ、

 人は、

 恐怖にかられ、

 家族と、

 祖国のために、

 銃を取る。

 戦争が、

 どういうものか、

 知っているからだ。

 知っているものは、

 必ず銃に手を伸ばす。






 失われた誇りを取り戻す為に、

 未来のために、

 犠牲を承知で、

 自らの今日と明日を売る。

 次代を信じて。

 


 銃を手に取った人間は、

 兵隊になる。

 侵略と支配に抵抗する者達。

 レジスタンス。

 ナチスドイツ占領下のフランスで、

 祖国奪還のために、

 地下運動を継続した人々がそれであり、

 大英帝国の支配と搾取に抵抗したのが、

 アイルランドのIRAである。




 長き屈辱の歴史に、

 終止符を打つ為に立ち上がろうとする人々もいた。

 解放戦線である。

 西欧列強の支配から脱却する為に、

 一斉に独立闘争を開始したアフリカの人々がそれであった。





 故郷を守る為、

 極東の島国の蛮族から、

 大陸を守ろうとした人々もいる。

 軍人が、

 民兵が、

 女子供が銃を取り、

 彼らは抗日戦を戦った。




 ヒトラーが権力を掌握するドイツにて、

 ナチに属さず、

 ドイツ軍人として、

 苦悩の中で戦いを続け、

 チャーチルの暗殺のために海を渡り、

 全滅した、

 誇り高き空挺部隊があった。




 世界最強を誇った、

 戦艦大和に補足された米海軍には、

 味方艦を逃す為、

 自らが囮になり、

 最後には盾となって海に消えた、

 220人の乗員と、

 忠国の巡洋戦艦があった。




 米国に移住した日系二世達は、

 強制収容所に収容された家族達の地位の回復を信じて、

 自ら志願してヨーロッパ戦線へ赴き、

 損耗率320パーセントという桁外れの犠牲を出しながら、

 日系人部隊という差別を乗り越え、

 二次大戦において全米軍最大個数の勲章を獲得した。

 渡欧した日系2世たちの半数が、

 対ドイツ戦で帰らぬ人となっている。



 そして彼らの両親の故郷である極東の島国には、

 絶望的な情勢下において、

 敗戦が確定化していくなか、

 すこしでも有利な講和が結ばれることを信じ、

 松から抽出された油で飛ぶ鉄の棺桶に爆弾をぶら下げ、

 太平洋に散っていった、

 大空の侍達がいた。




 エリトリアのエチオピアからの、

 30年に及ぶ独立戦争では、

 エリトリアの兵士達はラクダに乗って戦車と戦い、

 ラクダとともに砲弾の雨の中を駆け、

 敵陣地に肉薄し、

 倒れていった。




 イラク戦争では、

 圧倒的な戦闘能力を誇る米軍を相手に、

 旧式戦車に乗り込んだ多くのイラクの若者が、

 その命を砂嵐の中に散らせた。



 


 戦争は、

 最悪の、

 世界を変える手段である。





 これほど尊い精神をもった男達が、

 涙を呑んで死んでいく。

 罪もない老人や女子供が、

 屈辱にまみれた最後を遂げる。







 それが戦争である。

 そして、

 反戦なんて言葉が塵芥のように吹き飛ぶ、

 戦うだけの理由を男達は背負い、

 家族を守る為に死んだのだ。






 これが戦争を美化する、

 抽出された美談だと思うならば、

 勝手に思えばよかろう。

 ここに書かれた男達の結末の背景には、

 戦争という回避不可能な絶望がある。

 何世代も残された家族が背負っていかねばならない傷と、

 男達が死ぬまでに犯した殺人による犠牲者が、

 戦争にまつわる全てのエピソードに付随するのだ。





 ひとりの英雄の死には、

 億千万の名もなき兵士の慟哭と悲鳴がある。






 戦争という、

 狂気の支配する空間で、

 人が戦うとき、

 人としての理性を保ちながら、

 殺戮を継続することが、

 非常な困難を伴うことであることは明白であろう。





 殺人者としての使命を帯びながら、

 尚、

 人間として生きようとした多くの兵士を、

 どうして罵倒することができようか。

 一部の兵士が、

 軍人としての誇りを喪失し、

 単なる快楽殺人者と化すことが、

 あまねく全ての兵士達から、

 勇者の尊厳を剥奪するのに、

 果たして正当な理由になるのか。





 戦争は、

 狂気の開放を是認する。

 快楽殺人の傾向を持つものが、

 その性向を爆発させ、

 非戦闘員や捕虜を陵辱する化け物に化すことは、

 ほとんどすべての戦争がそうである。



 しかしながら、

 それでも、

 戦争という最悪の手段の実行者として、

 その身を戦場に投じ、

 人間として生きて、

 人間たらんとして死んでいった人間に対し、

 次代の礎としての誉れを、

 謳うことが、

 果たして過剰な賛美であろうか?




 小生は、

 断じて、

 彼らの名誉を守る。




 戦争という狂気の中で、

 人間として生き、

 死ぬということは、

 生きて帰るということは、

 奇跡だ。





 彼らのような、

 人間のまま、

 戦争を行う偉大な精神の男達がいなければ、

 すべての戦争は、

 さらに凄惨な様相を呈する、

 この世の地獄と化したに違いない。





 全ての戦争は、

 兵士達の保ちえた人間としての最後の良心と、

 軍属としての誇りによって、

 民族浄化の悪夢から逃れたと、

 小生は信じている。




 でなければ、

 歴史上の全ての敗戦国の文明と民族は、

 この世界から消滅していたに相違ない。

 ナチスがそれをユダヤ人に対して行ったように。




 
 戦争は、

 多くのものを闇に葬り、

 事実を捏造し、

 後世においては、

 さらにそれらは情報操作されて変質していく。





 なにが真実であるかは、

 多くの場合、

 起きた時点で判らなくなっている。

 それが戦争なのだ。






 現代の日本人は、

 太平洋戦争敗戦にいたる侵略15年戦争の罪の記憶と、

 戦後GHQによって捏造された多くの戦争犯罪と、

 赤系メディアの作為的な情報操作の影響で、

 世界的にみて異常に発達した軍人蔑視の感性を保有していると断言できる。




 全共闘時代には、

 多くの自衛官が外出の際に、

 私服を着ることを上官から命令されていた。

 制服では、

 民間人(過激派学生)に襲われる危険があったからである。






 なんたることかと思う。

 世も末だ。




 多少でも論理的思考ができる人間ならば、

 「 軍備 」というものが、

 国家の屋台骨の中核であることは明白なことだ。




 冷戦下の当時は、

 ソ連が極めて現実的な脅威であったし、

 その世界情勢下で米国との蜜月を破棄し、

 ベトナム戦争への間接的な協力を停止すれば、

 安保条約は失効し、

 日本は世界的に完全に孤立することになる。

 憲法上軍隊を保有できない国家が、

 超国家との同盟関係を破棄すれば生存の道は絶たれたも同然であろう。

 ならばあくまで反戦を徹底するべく、

 安保条約を破棄した後に憲法を変更し軍隊を再配備するか?

 再び軍隊を持ち、

 軍役につく覚悟を、

 国民はできまい。





 

 真っ先に死ななければいけないのは、

 いつだって軍人だ。

 戦争さえなければ、

 民間の人々と同じように、

 笑い、

 泣き、
 
 悲しみ、

 喜びを覚えながら、

 日々を暮らしている若者達である。





 知っているとは思うが、

 日本政府は米国に請われ、

 ベトナム戦争に自衛隊員を派遣し、

 死者が現に出ている。

 彼らは、

 日米安保条約の維持の為、

 一般の国民が再び兵役を強いられることを防ぐ為に、

 べトナムへ飛び、

 戦い、

 死んだのだ。

 制服を着て、

 外出することがはばかられるような母国のために。








 真っ先に死ぬ連中は、

 戦争で死んでいく兵達は、

 様々な理由で戦い、

 致命傷という同じ理由で死んでいく。





 兵士を讃えるのは、

 我々民間人の務めだ。






 彼らは、俺達の代わりに死んだのだ。






 彼らは、我々の世代のために、

 次の世界のために、

 戦い、

 死んだのである。






 戦争と、

 兵士達を語るならば、

 まず、

 彼らの生と死の先に、

 手前の命が結実している事実を見据えることだ。






 軍人が、

 身体を張って弾丸を身に受けていなければ、

 今日の世界はない。





 



 人間のまま、

 戦い、

 散っていった兵士達へ。



 戦争の最前線で、

 真っ先に死んでいった男達へ。




 




 
 その尊厳に満ちた生と死を

 万感の想いを乗せて讃えよう。








 よくぞ戦った。

 ありがとう。
[PR]
by 201V1 | 2005-12-09 00:14 | カテゴライズ前・生ログ
記憶箱

 時を問わず、

 夜、眠る前とか、

 仕事の合間だとか、

 脳味噌の左奥が、

 ちょいと空になったとき、

 溢れてくる記憶がある。


























 正確には、

 溢れてくる、
 
 他人の記憶だ。

 















 他人が過去に体験した、

 いろんな気持ちが、

 断片的な映像と一緒に、

 雪崩こんでくる。

















 知人達が、

 それぞれの人生で、

 通ってきた場面と、

 感情の渦が、

 脳味噌の、

 左奥に溢れる。
















 
 


 小生は、

 自分が、

 他人に、

 特別に変な人生を生きてきた馬鹿と、

 写るのを知っているが、

 知己の生きてきた人生の、

 決定的な場面を、

 どういうことか、

 脳味噌の左奥で見て来た自分には、

 どの人間の人生も、

 総じて、

 当の本人ですら解釈が不能なほど大変であり、

 およそ理解を超え、

 どれも似たように胸が痛む。


















 



 雪崩こんでくる場面と、

 感情は、

 ほとんどの場合、

 混乱に満ちていて、

 その中で、

 それぞれが決断をしようと足掻いている。















 恐れと、

 勇気が、

 ないまぜになった、

 生身の人の感情だ。

 














 なんて多くの、

 世界があるのだろうと、

 見る度に思う。
















 相当な苦労と、

 経験を積んでもなお、

 人の正は計り知れない。














 60億の世界が、

 この世界にはある。















 誰もが別の記憶を持って、

 別の世界に暮らしている。













 多分、

 我々は、

 それぞれが、

 それぞれの世界に暮らしているのだ。

 






 記憶と言う名の、

 全く別の世界に、

 それぞれが暮らしながら、

 ひとつひとつの瞳を通して、

 天の川銀河を見ている。













 









 小生は、

 他人の記憶を、

 垣間見て、

 思う。















 



 痛みなしでは生きられやしねえのだと。












 








 生きることは、

 痛む。











 心と体は、

 痛みを引きずりながら、

 行くためにあるのだ。












 心と、

 体は、

 痛みを知るために、

 あるのだ。













 違う世界に暮らしながら、

 異なる記憶を持ちながら、

 なお、

 僕達はともに生きるため、

 痛みを知るんである。















 記憶の箱が、

 脳味噌の、

 左奥でひっくり返るたびに、

 思う。














 知己たちの幸福と、

 いつかの夜明けを。

 
[PR]
by 201V1 | 2005-12-04 05:54 | カテゴライズ前・生ログ
高校における講演あれこれ
 
 12月19日の講演が、

 あれほど脅しておいたのにも関わらず、

 上演決定の方向で話が進行している。



 うぎゃあ。


 

















 12月といえば、

 我々、

 決戦販売の業界では空前の繁忙期であり、

 プチ・リタイヤ中の小生でさえ、

 油断すると勤め人並に働かねばならぬほど、

 仕事が腐乱している。





 だので断りたかったのだが、

 先方が何故か大乗気であり、

 散々脅しといたのに、

 話がトントン拍子で進んでいる。



 講演の表題を決定したいという、

 先方の申し出があったので、

 いい加減、

 諦めをつけさせるため、

 不適切な表題を複数上げてみたのだが、

 先方が、

 「 これでいきましょう 」と、

 大喜びで決めたのが、

 候補の中でももっとも出鱈目な、












 「 死ぬの、生きるの、しゃらくせえ 」







 であった。

 










 大丈夫かこの高校は?(ほんとに県立高校か?????




















 というわけで、

 12月19日の講演の表題は、

 「 死ぬの、生きるの、しゃらくせえ 」

 である。












 「 やけくそ 」という言葉の真意を、

 初めてリアルに知った気がする。








 退路が見えん。








 背水の陣、

 例によって、

 自ら敷いての出陣である。






 者共、

 武運長久を祈れ。笑
[PR]
by 201V1 | 2005-12-01 23:32 | カテゴライズ前・生ログ