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幸せになるために。
オプティミスト(楽観主義)とぺシミスト(悲観主義)。

ポジティブ思考とネガティブ思考。





ポジティブ思考のオプティミストは迷惑千万であり、

ネガティブ思考のペシミストは実用に耐えず、

ネガティブ思考のオプティミストに生産性はない。






というわけで、

小生は、

「 なにより不愉快でない 」という意味で、

悲観主義的観点に立って、

具体的打開策を探るポジティブ系の人材に、

有用性を認めている。







言い換えるなら小生は、

大前提として楽観主義者を全体的に憎悪しており、

ネガティブな発想でしかモノを考えられん手合いを、

用を成さぬあんぽんつくと、

断じているわけだが、

この結論に至るまでには、

人間を始めてから25年以上の歳月がかかっており、

膨大な労力を、

オプティミストとネガティビアンによって、

無駄にされた経験によるもんなので、

一切の異論反論は却下する。







世界を支えているのは、

ポジティブなペシミストたちだ。









オプティミストとペシミスト、

ポジティブ思考とネガティブ思考を考えるとき、

重要なのは、

やはりその「 ククラレタコトバ 」の再定義であり、

馬鹿でこの世が満ち溢れている最大の原因は、

「 ククラレタコトバ 」をてめえなりに紐解かずに使う阿呆の絶対数が、

大分に多い為であり、

不幸の源は馬鹿に尽きるわけで、

小生は不幸と戦うことにした。









まず、

楽観主義とは、

「 うまくいく事 」を前提にスタートする連中であり、

「 手前が絡む限りうまくはいかんのだよワトソン君 」という一般常識を知らぬ、

「 こうなったらいいなあ 」という希望的観測に人格を侵食された

メルヘン世界の住人であり、悪夢のドリーマーである。


彼らの最大の特徴は、

ほとんどの全てのトラブルに対する備えと覚悟がねえ点であり、

それが為に緊急時において入力できるコマンドがパニックしかなく、

混乱の中で思いつくアイデアの悉くに、

ナウマン象も即死するクラスの大穴があるとゆー、

「 バーサクとのメダパニ和え 」的症状が恒常的に見られることに尽きる。

その言動は軽挙妄動の権化そのもので、

結果、経営者・トップに多いという恐ろしいオマケがつく。




これに対して、

悲観主義とは、

「 うまくはいかねえ事 」を前提に、

「 どんなまずいことが起きる可能性(回避不可能なものも含め)があるのか? 」

「 まずくしないにはどうするべきか(事前策の有無)? 」

「 まずくなってから巻き返す手はあるか(対処策の有無)? 」と考え、

起こりうる問題を想定しその解決に対する手配を先回りする、

リアルな戦場に生きるサバイバーである。


連中の特質は、

自分でコントロールできない範囲と、

できる範囲を色分けし、

できない範囲で起き得る問題と逆風を可能な限り想定し、

できる範囲で問題解決の具体策と逆風の利用方法を模索する準備を、

事を始める前に進める点であり、

敗北しないための勝利条件を事前に設定して初めて、

事に当たる点であろう。





ポジティブ思考とは、
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by 201V1 | 2008-01-15 01:56
人々と世界と君と

 年が明け、

 いいかげん今年は、

 週一くらいのペースで更新することにしようと、

 小生は初日の出に誓った。(古来、熟睡しながら天才は誓う)



 問題は、

 職場の健全さが度を越している点であり、

 アニマルランド系社員が中核を成す会社だというのに、

 ノー残業の定時上がりの休日完全取得フルスロットルという、

 アドレナリンのまるで出ない状況のため、

 「地獄の沙汰も肝次第・度胸千両・一人火の玉 」的話題に欠けるので、

 かつてのような鬼気迫る社畜生活の暴露ができねえ次第であり、

 何を書けばいいのだという事になるが、

 過去の与太話を今さらつづったところで埒もねえし、

 じゃあ何だ、

 何を書くんぜよと考えれば、

 帰結するところは、

 やはり手堅い「 テラ妄言 」という、

 得意の駄法螺に落ち着くので、

 その路線で攻めることで大本営は方針を決め、

 ここに今年度中の、

 大東亜共栄圏の実現を、

 確信するに朕は至った。(至ってしまった馬鹿)






 というわけで、
 
 凡百諸君、

 皇紀2668年、明けまして。

 革命的ニートの魔窟・和魂要塞・城代・201V1です。

 小生は、過去に丸4年ニートでした。(赤裸々





 えー、去年丸ごと一年あまり、

 小生は当該ブログの更新をさぼり疎かにしておりましたが、

 実は去る皇紀2666年の7月に、

 当要塞の侍大将であった「 音隅 陣愚郎 」というゲッシメが、

 老衰と不断の食べすぎで身罷ったため、

 1年喪に服していた為であり、

 まぁそんなこんなで、

 こんなこともあろうかと、

 小生は事前に喪に入るという蛮行に及んで、

 今日まで凡そ、月日にして3年半くらい、

 泣き暮らしていたわけです。はい。( 恐ろしいすり替え )





 今回の本格的再開の背景はそんな感じで、

 まぁ全部が全部、うそなんだけど、(うそなんだけど?
 
 気にしない小生は豪胆。(←ほめちゃった馬鹿





 というわけで、始める。

 なにがって、

 馬鹿が聴いてなかったらしいので、

 念のため、

 形而上学的寝言である。(新年早々犬も食わない企画がスタート←しかも4クール保障)






 記念すべき初回は、

 「 自己完結 」についてである。

 さぁ、金にならない匂いが猛然とする感じだが、

 安心しろ!

 このブログは昔から、

 読めば読むだけ、丸ごと全部、

 暴走する狂気侠気の突き進むその先は、

 特急で貧に繋がり、漏れなく鈍して万人が窮する仕組みであり、

 そーゆー未知のメカニズムが備わっているんである。(有害図書万歳







 

 小生は、

 まぁ、

 端的にいって、

 人付き合いが嫌いなわけだが、

 珍獣ゆえの悲しさか、

 単純に貴重という属性のために、

 もろもろの人々の友人リストにおいて、

 「 大事ではないがキープする知人 」というカテゴリに登録されているため、

 歩く音信普通と認められている割には、

 人に会う機会がままある。(普通の人の2割程度は






 で、

 人に会うにつけ、小生はふと思い至った。

 人々との団欒のヒトトキに対する「 めんどうくさい度 」が、

 卓を囲む相手の自己完結の程度に多大な影響を受ける事実に関する、

 核心についての興味である。




 平たく言えばだ。

 「 自己完結 」って何?ってことである。





 「 自己完結 」の程度が、

 どんな感じかは、

 30年も苦界を彷徨っていればサルでもできるようになるわけだが、

 そもそもこの「 自己完結 」って何ってのが味噌なんであり、

 再定義なくしては、

 人は永遠に知恵を知らぬサルで終わる。




 さて、

 賢明な読者諸兄のうち、

 何割かは、

 現段階ないし、

 当該記事の読後に、

 改めて「 自己完結 」に関して辞書るかウィキるか考えておられると思うが、

 フツーに調べたんでは、

 「 プチ自閉・没交渉 」的なネガティブ解説しか、

 「 自己完結 」という言葉には注釈がない。



 そもそもが、

 個人主義を歌いながら、

 一方ではブログだミクシィだなんだと、

 人との繋がりを求めて止まぬ時代において、

 「 自己完結 」なんて形骸の権化みたいな言葉が、

 セメントで議論されるワケがねえわけで、

 個々人が好き勝手に解釈している事例の最たるのが、

 この「 自己完結 」なる言葉であろう。



 
 それぞれが今、

 「 自己完結 」ってなんですか?と自問したとき、

 イメージするものはまるで違うものになる。




 それほど、

 言葉というのは、

 不安定で、

 信用ならん、

 相互コミュニケーションツールなわけで、

 言霊を扱うには、

 厳密には個々人が言葉を再定義した上で、

 定義の差異を認めなけりゃならんが、

 実際には、

 人は、

 漫然と喋るし書くのが常態なので、

 コミュニケーションは言葉に頼ると成立しない。






 突き詰めれば、

 言葉より行動が全てになってくるわけだが、

 詰めまくるとまた、

 和魂要塞が再び3年ほど放置されるのが目に見えているので、

 ここでは事実から目をそむけ生暖かい視点で人生を俯瞰し、

 自己完結について言及する。



 

 実際問題として、

 「 自己完結性 」に関し、

 真面目に考えて何者かは、

 憂うべくことに「 軍隊 」しかない。





 極限まで平たく言えば、

 自己完結性とは、

 「 インフラが断絶した中で戦闘行為を継続できる 」性質を指すんであり、

 個人レベルに置き換えた場合のそれは、

 「 単独での生存競争の継続 」を意味する。






 よーするに、

 バイタリティ=生命力であり、

 最後まで突き詰めれば「 戦場の根性論 」である。






 自己完結性の高低は、

 つまるところは、

 そこなのだ。








 我々の人生には、

 実際問題、

 「 一切のインフラねえな 」という、

 気を抜くと死ぬか、

 再起不能のダメージを蒙る局面がある。






 言い換えれば、

 「 丸腰で助けを呼べない状況 」で、

 「 踏み間違えてはいけない階段 」を、

 「 満身創痍に近い体調・精神状態 」で、

 登らなきゃいけない瞬間があるということであり、

 ここで試されるのが、

 「 自己完結性 = バイタリティ = 戦場の根性論 」であり、

 生還できる兵士としての資質なわけだ。










 いろいろあり、

 小生は、

 このあたりをもって、

 「 自己完結性 」を定義し、

 個々人の中のその程度を、

 見極め、

 その人の根っこを診ている。






 

 生まれて死ぬまでの、

 半世紀と少しの間。





 人は多くの人と関わりを持ち、

 そのうちの幾人かと、

 深い繋がりを持って、

 生きて、

 死ぬ。




 
 その関わり合いの、

 ほとんどは、

 反応に過ぎないが、

 それ以上の関係=繋がりを作ることが人間にはできる。






 その繋がりが意味を持つのは、

 日々と、

 危機においてだ。





 問題は、

 誰と繋がるのか?という点であり、

 生存競争からの脱落を拒否して天命のマットウを望むなら、

 希望の無い表現を恐れずに行うならば、

 戦場の根性論的見地における弱者との繋がりは、

 自身の生存に関し不利に働くことが自明となる。






 なぜならば、

 我々は、

 愛するものを、

 切り捨てることはできても、

 見捨てることができないからだ。





 その意味で、

 バイタリティの不足は、

 不幸の源泉に他ならない。






 
































 生まれて、

 生きて、

 死ぬのは、

 なんて難しいのだろうか。








 人の親になって1年半が経とうとしている今日まで、

 息子の中の何を育ててやれるのかを考えてきた。






 優しさか、

 慈しみか、

 違うと直感は告げている。





 それは、1番大事なものではないと。




 とても大事なものだが、それが全てではないと。

 そんなに世界は甘くなかった。




















 一番大切なのは、不幸の元と戦う力だ。









 人生には、

 自分の命そのものを、

 試される瞬間がある。







 息子よ、

 そのとき、

 君は、

 ひょっとすると、

 ひとりではないかもしれない。






 そのためにこそ、戦う力を持っておけ。

 愛する人を、不幸から守るために。





 この世界と、戦う力を。

 
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by 201V1 | 2008-01-06 03:30 | カテゴライズ前・生ログ