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産土神と生きる2
とゆーわけで、更新です。201V1です。蛙の子はオタマです。過労の為、文章が乱れておりますが、熟考してみてもチャンとしているケースがあまりないのでこの際もぉどうでもいい。俺はなんだ?おうさ、今なら熊にだって勝てる。

 えー、何?なんだっけ?あー、ウブスナガミね。あいかわらず適当なことほざいていやがるな、こいつは。なにもかんがえとらんな。

 で、議題はようやくにして核心部分に近づいてきた次第であって、ここまでで軽く5時間くらいかかっているが、まぁいいとしよう。問題はアニミズムであり、先祖崇拝であり、祟り信仰であり、ウブスナガミである。

 先に述べたように、ヨーロッパではキリスト教が、アラブではイスラムが、大陸では儒教が、それぞれ信仰の対象となっているわけだが、彼らの場合、信仰の対象と倫理感の出所がほぼ完全に一致しており、この点が我が国のそれと決定的に異なっている点に疑問の余地はない。(なーいっ。唱和せよ)

 いずれ紙面を改めてぶち上げる「倫理観編」でも重ねて述べることになろうが、日本人の倫理観の根底には武士道があり、それに「ケとハレ」の呪いが海苔巻き状に撒きつき酷い有様になっている一方で、信仰の対象はまったく別のところにある。(ここ重要)それが「祟り信仰」(以下タタリズム)であり、このタタリズムが精霊崇拝(以下アニミズム)と相互に補完しあいながらこの国の信心を支えてきたのだ。

 

●アニミズム(精霊崇拝)

 最も原始的な宗教の一形態であり、その冷凍庫焼けの具合は巨石信仰(ストーンヘンジ・蝦夷氏など)や日輪崇拝(アステカ文明・ダイターン3など)と比肩する化石宗教である。代表的なものにネイティブ・アメリカン・アフリカン・オージー・ジャパニーズ・エゾなどなど、全部接頭詞がネイティブなところに諸々の事情とカルマを感じるが、あまり深く考えると鬱になるのでオッペケペである。
 日本とアメリカ(オージー・アフリカ含む)の精霊観には差異が認められ、前者に霊魂が昇華(足場からの開放)することで精霊化(仙人化)するケースが多い一方、後者では始めから精霊は精霊として存在している場合が多い。この背景には、「精」に対する質量の概念の有無と、ペルシャから日本にいたるシルクロード間で広く信じられている霊魂の二面性(魂魄思想)が色濃い影響を及ぼしているものと考えられるが、これについては別項にて記述しよう。(するんかい)
 
 我が国の精霊崇拝の対象として最もポピュラーなものは全国に散在する数多のご神木であり、「ケ」の関係上からか日本の精霊は動物よりも植物の方が圧倒的に多くなっている。さらに厳密に、精霊を「精」と「化生(妖・鬼・ヌシ)」に分けた場合には、純粋な精としての動物系精霊は絶無となる。植物系が有りのままの姿で(質量の増加という条件付ではあるが)「精」として受け入れられ精霊扱いされるのに対して、動物系の場合は「死して祟る」か「化生へと変じて」初めて精霊の仲間入りが果たされるのである。 
 このように一見すると冷遇されている「日本のどうぶつ」であるが、実際に精霊の上位にさらに位置する土地神を注視してみれば分かるとおりその尽くは「どうぶつ」であり、元来神性の弱パンチな「どうぶつ」が、マクロ的視点においては神界の上位にいる現実がある。こーゆーケース(弱が転じて強になる)は世界的には非常に稀なことなのだが、この原因の最右翼がタタリズムにあるんである。

 また、予断だが、精霊の階位は精の質量増大(精は集まって質量を増す一方、単独で膨れ上がる場合もある)に比例するが、擬人化の程度(人間的な意識をもって振舞う度合い)は必ずしもこれに一致しない。人が転じた氏神ですら人格を消失しているケースも多く、この点も「魂魄思想」の影響がみられる。



●タタリズム(祟り信仰)

 精霊と祟りの関連性を示す有名な言葉に「仏は祟らぬが神は祟る」というのがある。天や仏は「罰する」のであってそこには同義的な正当性があるが、「祟り」には八つ当たりの気配が多分にし、「いいひと」ですら問答無用で「祟られる」可能性が否めない。
ここが味噌なんであって、とどのつまり、「神=精霊」は時として話の通じないキチガイに近い存在として認識されているのである。よーするにパープリンであり、話し合いの余地がない以前に場合によってはまったくの冤罪で祟られて憑かれ殺される運命に我々はある。なんじゃそりゃの世界であり、これはもぉマジにこわい。

 しかも祟るご本人は猛烈な恨みソネミをもって捨て身で動いているケースがほとんどで、身に覚えのない「巨大な怨恨の塊」が、ある日空から最大戦速で降ってくるとゆー、悪夢のような物語が日本人の精霊観にはあるんである。勿論、総体としてのキチガイ精霊の構成比は決して多いわけではないが、里人と接触する精霊に言及するとそのパーセンテージは何倍にも膨れ上がり、インパクトの強烈さから、精霊に対する印象は大幅に「畏れ」に振れることになのである。
 端的にいうと、精霊にはマトモなのと気が狂ったのがいるわけだが、彼らはマトモとおもいきやイキナリ狂ったりするのが得意というか仕事であり、八百万の功性精神病患者の群れといえる。(こええ)
 
 考えてみると我々は物凄い世界で生きているわけで書いてて不安に駆られてくるが、ぶっちゃけこれほど理不尽な神々にかこまれて生きている民族も珍しい。
 このように、「祟り」あっての「畏れ」であり、「畏れ」あっての「精霊崇拝」というのが日本の宗教観であるわけだが、次項では、いよいよ「祟り」の原因である「魂魄思想」と「ハレとケ」について言及しよう。(みんな付いて来てるんだろうか?・・・・きてるわけねーだろ)


●魂魄思想(コンパクシソウ)

 中国生まれの日本育ち、「ハレとケ」の兄弟である魂魄思想とは、端的にいうと「一般に言うタマシイ」を「魂(コン)」と「魄(ハク)」に分けて捉える思想である。 魂魄思想はアジアに限らずスカンジナビアやエジプトでも信じられており、エジプトではバーとカーで説明され、死後バーは霊界に、カーは墓地に留まる。この点はコンが昇天しハクが鬼になる魂魄思想と殆ど差異がない。
 厳密にいうと「カラダという精の足場」を満たしている「霊(精)」を「心霊のコン」と「身霊のハク」とに分割して捉えているわけだが、機能的に見ると難しく考える必要はあまりないのである。
 
 魂魄思想を全力で大雑把に書けば、「コン」は健全な状態にあり、「ハク」は病んだ状態にあるタマシイのそれぞれの相であるといえる。この「健やかと病みの発想」で魂魄思想を捉えると、タタリズムと「ハレとケ」に対する視野が非常に開けてくるが、瞳孔まで開いてしまうとトランスパーソナル心理学との合致に焦点があたって脱線するので物語的には巨大に危険である。(これはまた次回、心理学編で)
 
 精霊はぶっちゃけると「足場のない精」であり、つまるところ剥き出しの魂魄そのものであるといえる。(足場がないので非実体化も可能だが、心気と身気が揃っているので実態化も容易である)つまり健やかさと病みの両面を持っているわけで、文字通り神経剥き出しの為に極めて不安定な精神状態にあり、それがためにまま怒り狂う。で、この状態で「コン」が昇天し「ハク」だけが取り残されると精霊は「荒ぶる祟り神」になり、キチガイモード全開、病みまくりの憑きまくり、もぉどおにもリンダリンダ。祟りまくりの目くるめく阿鼻叫喚の地獄絵図のお披露目と相成る。
 
とまあ、我が国の精霊たちが事あるごとに祟るのには、上記のようなメカニズムがあった次第であり、なんでこんな馬鹿を書いたのかといえば、すべては次項「ハレとケ」の為である。(長すぎる伏線。伏しすぎて床ずれ必須)


●ハレとケ(晴れと穢れ)

 いよいよというか、ようやくというか、ついに古今東西触れてはならぬアンタッチャブルに肝掴みという未曾有の大団円を迎えることになった201V1。GIダーイ。大ぴーんち。果たして収拾がつくのかどうかは神の味噌汁。だがしかしこの問題に触れずして我が国の宗教を語る道はないのである。砂をかけて仕舞いにするにはまだ早すぎる。

 まず大前提として、「すべての人が自己の全ての可能性を拡大し、活き活きと生きている状態=健やかさの極まりきった世界」である。で、「すべての人が怨恨と憎悪と復讐心とで凝り固まり、他人の苦悩だけが愉悦でたまらん快楽主義的サド状態=極限まで病んだ世界」だとしよう。これは一本の棒の極と極であり、一方が熟れた実で一方は腐れた実である。

健やかさとは「生」であり、病みとは「腐敗」なのだ。


 次に、以下のシーンを目を閉じて10秒間リアルに思い浮かべてみる。リアルに。



シーン1  満開の桜の下、あなたは朝日の光の中、涼しげなそよ風で目を覚ます。













シーン2  後手に縛られたあなたの口を、梅毒で顔面の腐った男が吸おうとする。



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 シーン1の時、あなたは果たして、息を大きく吸わなかったか?春の精気を吸い込むように。

 シーン2の時、あなたは果たして、息を止めなかったか?その時、鼻をしかめ、少しでも男の息を吸うまいとはしなかったか?


 シーン1は「晴れ」のイメージである。そしてシーン2は「穢れ」のイメージだ。


「生」は「晴れ」であり、「腐れ」は「穢れ」である。


「晴れの日」、人は息を吸う。それを取り込むために。

「穢れ」に対し、人は鼻をしかめ、毒気を吸うまいとする。



 現人神と部落問題に基づく、日本人の心の奥底に根付いた忌まわしき偏見は未だ根強く、それがゆえに、「ハレとケ」のもうひとつの側面を見逃すことは極めて容易い。

 世界に「ハレとケ」が厳然と存在するように、「ハレとケ」の中にもまた「ハレとケ」がある。

 日本人は「ケ」を何よりも恐れた。人から人間性を剥奪する「災いをなすケ」を恐れ、「祟り」を恐れ、それがために精霊を奉り、一人一人が「ケ」の拡大を抑制せんとしてきたのだ。

 それは裏返せば、決して投げ出すことのない「生」への希求であり、「健やかさ」に対しての不退転の決意である。

 

 日本人は、自然に対する感謝の念は失わなかったが、根源的な意味における宗教を今日までついにもたなかった。

 あったのは、折れない心と、晴れの日へと進む揺るぐことのない意志である。

 神仏に救いをもとめず、どこにも組せず、ウブスナガミとの静かなる闘争に生涯をささげた男達がいた。

 この国には、次代の為に世界を変えようと生き抜き、倒れていった女達がいた。

 


 精霊崇拝は信仰か?

 祟り信仰は宗教か?

 
 それは、抜き差しならぬ状況下で尚も襲い来る「穢れ」に抗う人々の血の歴史だ。


 


 問われれば答えよう。


 「私は、ウブスナガミと生きていく。」
 
by 201V1 | 2004-05-09 21:28 | ■宗教 
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