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愛かね。愛。 (最終回)


愛とは、「成熟を促そうとする気持ちと、その行為」である。

それは半壊した家を、元来あるべき姿に、生き返らせる作業に似る。



それは命がけの行為だ。





すべからく人は、健やかに成熟する可能性を秘めながら、この世に生を受ける。

しかしながら、先天的・後天的に、その可能性はたびたび剥奪され、衰退の道をたどる。



人は、他者との比較論的見地における優位性の保持の為に、自ら可能性を放棄する。

何よりも、生き残ることが優先されるからである。

可能性を捨てでも、我々は自己の存在にかけて、生き残るスキルを獲得しなければならない。

それは我々を取り巻く世界が、生き残ることを意識しなければ、容易に存在を許してくれない「愛の不十分な空間である」という事実を裏付けている。




人は、自らの意思と関係することなく、他者の病が発する瘴気によって、理由もなく可能性を奪われる。

病に取り付かれた、人の皮をかぶった獣たちに対し、我々は多くの場合、無力だからだ。

我々は奪われ、可能性の芽を潰され、それでも尚、今日まで生き延び、自分の足で大地に立っている。






我々の帰属する世界は、無事に人間が成熟に至るには、あまりにも過酷なのだ。









すべからく人は、可能性を失い、今日を生きている。

そして愛とは、その失われつつある可能性を再び生き返らせることを指すのだ。










愛は、「気持ち」と「行為」という2つの側面をもつ。

少なくとも我々は平時、愛という言葉を、この2つの意味で使う。

しかしながら実質的には、「気持ち」に「人を成熟に導く実行力」はない。

人を成熟に導くのは、愛のある態度であり、言葉であり、行為である。

気持ちだけでは失われた可能性は回復し取り戻すことはできないのである。



その意味において、人を愛する「気持ち」は、犬も食わない駄物と断定することができる。




今日、我々に要請されるのは、実行力をもった「行為」なのだ。

実践を伴わない感情は、現実において「ない」に等しい。

態度としても、言葉としても、行為としても発露することのない「愛」など、「病」で満ちた世界の前では無力である。

必要なのは、実際に「人を成熟に導くチカラ」なのだ。







チカラは、静と動の顔をもつ。

「君の成熟を願っている」ことを伝える無言の態度としての「静のチカラ」と

「実際に成熟を促す」ことのできる推進力をもった「動のチカラ」だ。



この2つのうち、どちらかでも満足に操ることができれば、我々はもう少し、可能性を維持して今日に至れていたかもしれない。

しかしながら、現実には我々の誰一人として、世界に満ちた「病」の発する瘴気から、愛する人を守りきるだけの、「静のチカラ」も「動のチカラ」も備えてはいない。それが現実である。




しかしながら、それでも尚、我々は人を愛することを諦めたりはしない。

たとえ完全には瘴気の毒素から守ることが出来ないとしても、決して人を愛することをやめはしない。

我々は、確かに無能だが、無力ではないのだ。

世界が我々の愛する人を、毒をもって侵そうとするならば、我々はチカラをもってその侵攻を阻もう。勝利のない戦いだとしても、我々は安易に敗北を認めることが、許されないだけの、最低限のチカラを与えられている。







我々に残された唯一の道は戦を続けることである。

わずかな「静と動のチカラ」に全てをかけて、瘴気に奪われた可能性を、掘り起こし続けるのだ。愛する人の為に。人を愛するために。

そしてそれを覚悟したとき、我々はもうひとつの真実にも目を向けなければならない。

愛する人のため、動と静のチカラを尽くそうとする我々自身に、チカラの根源である「健やかさ」は果たして宿っているのだろうか。

万人が成熟に程遠い世界では、自分もまた、病んでいるにちがいないのだ。

人を愛そうとするとき、チカラを尽くそうとするとき、そのためには自身が瘴気を克服する必要がある。





人を愛するには、チカラを振るうには、源がいる。

だがしかし、我々もまた、瘴気に侵された病の身にあるではないか。












いみじくも、かの哲人・フロムがこの答えを残している。

彼は言った。

「克己なくして成熟に至る人間はいない」と。

すべからく人は病んでいる。

地上に成熟した人間はいない。

ならば、愛を他人に求めること自体が、事実上極めて困難な要求であることになる。

愛されることで解決はないのだ。

重要なのは気づくことである。

残された道が克己しかないことに。












泣き言をいっても、何も問題は解決しない。

成熟に至るには、克己しかないのだ。

自ら今の自分の屍を越え、先に進むしかないのである。

そうでなければ、どうして人が愛せるのか?




人を愛するには、まず愛される必要がある。

人を愛するためのチカラの源を確保するために。

しかし現実は、常に「愛されなかった自分」から始まるのだ。

黙って座っていても、誰も成熟の後押しなどしてはくれない。

自らの決意と意思で「病」を振り払い、独力で「健」を勝ち取り、一歩ずつ成熟に近づくしか他に方法はないのである。

戦うしかないのだ。











我々は、「健」を勝ち取り、成熟に至るための、長い長い戦いの旅の途中にいる。

それは生涯辿り着くことの出来ない、終わりのない旅だ。

人を愛すチカラを身につけるための旅路である。

愛されることで解決される問題が、たとえどこにもないとしても。








我々の愛は、旅人にしか届かない。

チカラには問題を解決する能力がないからだ。

旅を諦めた人間に、チカラは決して届かないのである。

愛は万能ではない。

愛は旅人のものである。

成熟に至る旅の途中にあるものだけが、愛を糧にすることができるのだ。

チカラという糧は、旅人にしか滋養にならない。

病床から立ち上がる意思をもたぬ人間には、毒になりこそすれ、栄養にはならないのである。

愛は旅人のものなのだ。









小生は、途方もない長い間、愛は万病に効くと考えていた。

自身の愛をずっと過信して生きてきた。

そうではないのだ。










けれどもどうして病床に伏す心折れた人々に、愛を注がずにいられるだろう。

我々の信じてきた愛とは、そんな無力なものだったのだろうか。









小生は、違うと思う。

愛はそれでも無力ではない。

無力ではないのだ。

確かに、糧にはならないかもしれない。

愛に、成熟へと導くチカラはないかもしれない。

けれども無意味ではないはずだ。








愛をささげた人が、

病床に伏したまま、いつか力尽きてこの世を去るとき、

そのひとの心に、一片でも「かつて愛された」という記憶が残るなら、

それはきっと全く意味がないわけではないはずだ。



自分が愛を捧げた人が、

どうして我々の死後、自らの意思で病床から立ち上がらないといえるのだ。





愛は万能ではない。

それを糧にできるのは旅人だけである。

それでも我々は病床に伏す人々を愛すことをやめない。

いつか朝日が昇り、彼が立ち上がるのを信じて。







我々は、旅を続けなければならない。

克己という名の、成熟を目指す、終わらない旅を続けなければならない。

どうやらそれが、本当に人を愛するということらしい。






大切なのは克己である。

今日の自分の屍を越えて、歩いていこう。









この星は、自転することを、ずっと昔に忘れてしまった。

天球はこれまで一度だって我々のために動いてくれたことはない。



ここで座って待っているだけでは、もう決して朝日は昇らないのだ。

東へ向けて歩いていこう。

いつか、太陽に会えるはずだ。

終わらない夜はないのだから。









歩こう。

ただ一心に、東へ向かって。
by 201V1 | 2004-05-26 10:51 | ■愛っ
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