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「愛」かね「愛」。その2

世界は「陰と陽」で満たされている。

                                       



      「魂と魄」                      「清と濁」             

「人と鬼」           「治と乱」          

                             「光と闇」        「武と暴」                  
              「晴と穢」                 

                                 「戦士と奴隷」                     
  「和魂と荒魂」






これが世界である。





人が「愛」を語るとき、

人が地に足をつけて、世界における「愛」の実践を考える時、

当然、「陰と陽」も、別の言葉で表現される必要がある。



















それが、「健と病」だ。
















「愛」とは、 人を病から解き放ち、健やかにすることである。


「愛」とは、 病魔に脅かされる環境を、健やかさを育む土壌へと変えることである。


「愛」とは、 病苦をもたらす魔の眷族を駆逐し、健やかさを維持することである。


「愛」とは、 その対象を「健」へと推し進め、「病」から遠ざけるベクトルである。












それは「 健を願う心 」であり、「 健に導く行為 」である。















「愛」には、「気持ち」と「行為」の、似て非なる2つの側面がある。







             「僕は君を愛してる」     ・・・・・・・・・・・・・・・・       「あんたなんか愛していない」                                   
            ・・・・
  
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    「もうだれも愛さない」      
         「愛したくない」                                   ・・・     ・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  「愛ってなに?」   ・・・・・・・・・・・・・・    
                                 「これは愛じゃない」                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・                          
   「君を愛したい」       
                                   ・・・・・                    ・・・・・・・         「愛をちょうだい」
「愛なんていらない」                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                   
       
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・「恋と愛はちがう」                     
 「人を愛したことはあるわ」                       ・・・・・・・・・      

「この人を愛そう」  
                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                      
          「愛してくれてありがとう」                         
                「そんな愛は認めない」           
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     「もう愛せない」                                                  ・・・・・・ 
  
 「愛してるって言って」            
             「愛し合う」            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                                  ・・・・・・・・
            「彼を愛せるのだろうか」       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・             ・・・・・                     
 ・・・・・・・・・・   「これが愛?うそでしょ?」      
                                                                  「誰かに愛してほしい」    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      ・・・・・・・・・・・・・                                              
         「愛してるなんていうなよ」        ・・・・・・・・・・・・・・          ・・・・・・・・・・・・・・・        「かつて私も愛された」







人が「愛」を口にする時、

そこには「気持ちとしての愛」と「行為としての愛」の2つがあるのだ。





=   健やかにあらんことを願う「 気持ち 」 =




=   実際に健やかさを推し進める実行力を伴った「 行為 」 =






この2つは決定的に違う。

愛には2つの顔があるのだ。

そしてここにこそ、「愛」の複雑性がある。

前者と後者がセットで成立しない現実に、人の業があるのだ。

この違いを理解しない限り、永久に「愛」の本質は掴めない。

そしてこのテキストは、「愛の本質」を解き明かす為に書かれている。









カギは「健やかさ」にある。









「健やかさ」とは一体何なのか?

それを知るには、まず始めに、その逆位置にある「病」に焦点を合わせなければならない。

人が光を掴むには、闇にもまた、触れなければならないからだ。
















精神病理学という学問がある。

人の「心の病」を解き明かす学問である。

数ある心理学の系統の中で、特に「病」に関する考察に特化した学問だ。

そして、この精神病理学という体系の中に、考察の対象を犯罪者に限定した分野がある。







世に言う、犯罪心理学である。








この学問における、研究対象として最も人気が高いのは、明らかに精神に異常をきたした犯罪者群、一般にもよく知られる「サイコパス」という連中である。

なぜ彼らが人気なのか?

それは、かれら精神異常の犯罪者達が、「病の極」に存在する個体群だからである。

よーするに、ぶっ壊れ方が並外れた「極めつけのポンコツ共」なワケだ。




まぁ、レポートとかでじっくり読んでみると骨身に染みるが、ちょっとやそっとの「病み具合」ではない。

レイプなんか朝飯前、死体とバンバンHしちゃったり、人間もぐもぐ食べちゃったり、獣姦が日常だったり、子供攫って拷問しながら射精しちゃったり、そんなのを年中無休でやりたい放題な畜生共で、もう度を越えて無茶苦茶である。流石の小生すら開いた口が塞がらない。そこには間違いなく「人間」から逸脱してしまった怪獣達がいる。

明らかに弁護の余地がなく「全力で狂って病んでいる」のが彼等であり、この為に研究者にとっては絶好の標的になる。

やっちゃった犯罪の内容が凄まじく「異常」なので、ハナっから「異常」と断定して考察に入れるのだから、研究者にとってはタナボタだ。(言いすぎっぽいが、多分にハナっから異常と決め付けて考察に入っているフシがある。まあ当たり前だけど。

で、研究者たちは、この「怪獣」をつまみに、「どこがどう異常か?」ってことを延々と考察するわけよ。時に淡々と、時に何故か感情移入しつつ。

ま、エキサイトしないほうがどーかしてると思うが、この研究者諸兄の見解をじーっくり読んでいると、まぁ当然の帰結点として浮かび上がってくるものがある。






コイツら怪獣は、明らかに狂っている。「ビョーキ」だ。「病みすぎ」だ。

でもね。

じゃあね。

反対の「健やか」ってなに?

コイツラは明らかに限界を突破して「人間性」を放棄してるよ?。

「ビョーキ」だ。「悪魔憑き」だ。そりゃあ間違いない。議論の余地はない。

でもね。磁石にはS極とN極があるよね?ね?

だったらさ、コイツラを「S極の先っちょ」だとするなら、

「N極の先っちょ」にいる人もいるワケだよね?概念上は。

理論上はいるワケだよね?

それってどんなの?







って話になる。

当然そうなる。

そうならない道理がない。

考えない奴はどーかしてる。





で、当たり前の話、小生より早く、そーゆー結論に達し、

生涯をかけて「N極さがし」を始めた一派がある。

心理学の世界で「第三勢力」と呼ばれる研究者群である。

フロム・マスロー・オルポート・ロジャースの4名に代表される研究者たちだ。




まぁ最後のロジャースに関しては、途中で「パラダイム・シフト」とかゆーワケのわかんねえ妄言を吐き始め、「未来人がどうこう」と急激に「ニューエイジ」な方向にぶっ飛んでいってしまったので見捨てるが、他の3人の理論はかなり「マトモ」で一読の価値がある。


ぶっちゃけてしまうと、3人の理論とゆーか主張という奴は、あまり科学的ではなく、さらにエグルと心理学自体が全然科学的な学問ではないんだけど、まぁいいや。(いいのか?  ※注・最近は脳神経学と提携を結び、科学的になってきてはいます。


兎に角だな、この3人の天才は、「人間が健やかに育ちきるとこうなりまっせ」みたいな人物モデルを三者三様に提起したワケ。で、ココが重要なんだけど、これが表現は違うものの、本質的には全く一緒なワケよ。同じ特徴をもった人物像なの。加えて、これに異常な説得力がある点が味噌なのだ。



なぜって?


そりゃあなた。文明圏にいる人類が「普遍的にもつ健のイメージ」だから。
























・・・・・・・なんと、心理学とは 「  イメージ   」 だったのどぁ!。(どっかーん




















いやはや、恐れ入った。









で、バカは程々に本題。

よーするにね、健やかさに対するイメージってのは、大差ないわけよ。

高次元で「考えてる人々」の間では、イメージが極めて安定してるわけ。

これは結構スゴイことなんだぜぇ?。(なんでお前がえばるんだ?

まぁ、ちょっと考えてみりゃあバカでも分かる事なんだが、あえて説明するとだな、人の意見てのは人の数だけあって当然なんだが、こと「健やかのイメージ」ってことになると、「見事統一」されちゃうワケよ。これは当然、瞠目に値する事実ということになる。




「わお」である。



我々のような「鈍」で「愚」な一般大衆が、「片手間」で考える場合は論外として、セメントで「健やか」について賢人・哲人が死ぬ気で考え込むと、「同じ答え」がでてくる。

心理学が、宗教や哲学より「マシ」な理由がここにある。あまり馬鹿の漬け入る隙がないんである。そこは賢人のみに許された土俵なのだ。





なぜって?それはねー、「幻想」が通じない世界だから。





仮にも「科学」とゆーアカデミックな世界に存在する「心理学」には、同じ観念世界の玩具である「宗教・哲学」と比較して、「現実をモロ直視」しなければならないというハンデを背負っている。よーするに、スタート地点がいつも「リアル」なんである。



で、至極当たり前のことだが、「リアル」は誤魔化すのが非常にムズい。

ヘタに誤魔化して話をでっちあげると、後々必ず辻褄が合わなくなって破綻する。

無論、宗教のようにピンチの際に「神託」とかをカマし、信者を強引に騙すなんてカードはない。

哲学のように「で、あるべきだ」って扇情で「これでいいのだ」ってワケにいかない。

当該ブログのよーな、「困った時の暴走・暴言・大脱線」で次回に雪崩れるなんて無法は通じない。

だからこそ、心理学は信頼に値する。

まぁ、完成度は新渡戸の武士道に劣るが。(論拠はにゃい。←毎度





で、だ。

話が大幅にそれた気がするが、それはまぁサービスとして捉え、踊り子号は本線に戻る。ガッタンゴットン。






・・・・・なんの話だっけ?

カラカラ(マウス移動中

あー。

「イメージ見事統一」ね。

いやいや失敬。(失敬すぎ




で、「健やかさのイメージ」だが、まぁこれに関する具体的な記述は面倒なので省く。読むほうも退屈なので。

しかしながら全く触れずに話を進めるわけにも行かないので、かいつまんで抜粋するとだな、その人物像って奴は以下のような特徴をもつ。3人を代表し、1番分かりやすい「フロム先生」の持論を大味に書いてみよう。







フロム大先生的・健やか人間のイメージ

=革命的人間= (このコピーはどうかと思いますが、先生はこう名づけておられます)



特徴1  

真の独立を果たしている。

彼は血族・地域性・国家・階級・民族・党派・宗教に自己を埋没させることがない。



特徴2

目が開かれている。

彼は自己の属する社会やその他の社会を、人間性に基づいて判断・批判できる。



特徴3

彼は生を畏敬する。

彼は生に対して新和の状態にあり、生を成長発展させることを喜びとする。



特徴4  

彼は虚構に対立する。

彼は懐疑的な調べのなかにおり、そのために虚構と真っ向から戦うことができる。



特徴5

彼は絶望しない。

彼は未来について可能性を信じており、諦め、投げ出し、挑戦をやめることをしない。





特徴6

彼は自己の原理に服従する。

彼は自己の原理に背反する事柄については服従しないことができる。




特徴7

彼は権力を聖化しない。

権力は、絶対的なものとは無縁であり、服従の対象ではない。







てな感じである。

書いてみて気がついたが、珍念の中の「小生のイメージ」にかなり近い気もするが、まぁそんな「物語を破綻させる」ような恐ろしい話は忘れ、忘れろ。忘れるんだ。(必死


話を続ける。





一見すると「どこが健康なんじゃい」って雰囲気だが、余程の阿呆でない限り、死ぬ思いで人類史を考察し、現代を見つめ、自己を分析すると、1・2年後、「やはりこれが正しい」ことに気がつく。


シンプルだが、実際にこーゆー人がいると想定すると、なるほど。こりゃ健康である。正確には「成熟」した人間である。(さっきのことは忘れるんだぞ。いいな。


よーするに、十分に「愛され」、「健やかに成熟」すると、こーゆー人間ができあがるわけだが、問題は、こんな立派なやつは滅多にいねえという点にある。





なんでだ?






理由は簡単である。

だれも十分に愛されていないだけである。

我々は、愛されていないのだ。

========長くなったので、とうびいこんてにゅ。このまま別の板で書き上げます。
by 201V1 | 2004-05-26 22:12 | ■愛っ
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