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祖父



鰐口家は「剣」と「女」の家である。

代々男子は剣を振る。

代々男子は女を泣かす。

代々、なんてのは実は嘘で、

片方の爺さんが剣をふり、片方が女泣かせだっただけだ。




なぜか今日、爺のことを書こうと思った。

何も考えず、気の向くままに筆をとろうと思う。

祖父たちのことを書こうと思う。







爺さんの一方は戦前の関東八傑までいった剛のモンであった。

端的に言うと剣術使いである。

剣道人口が最も多かった時代。

居合いも心得ていた。

カラダの細い人で、肉体的には当時としても恵まれていなかった。

才能もあんましなかったという。

努力で上を目指し、腕を上げていった人だった。

名を「 U 」言う。




小生にとって父方の祖父である彼は、

先の侵略15年戦争のうち、実に10年間を職業軍人として従軍している。

銃剣術では師団単位でも無敵を誇った。

あたら10年も戦っていたおかげで、

北は満州から南は常夏のマラリア天国まで、

あらゆる僻地で銃火にその身を晒している。

南方では、自身の所属する大隊が全滅の憂き目に合いながら、

UとU旗下の中隊隊士3名だけが壮絶な激戦をくぐりぬけ命を拾い、

ギリギリのところで戦争を生き抜いた。

終戦時の階級は陸軍大尉である。

当時の戦記物のいくつかには、彼の名前を見つけ出すことができる。




母方の祖父「 T爺 」も、

海軍士官として太平洋戦争には丸4年参加し、

同じく大尉まで出世しているが、(T爺はタタキ上げではない。)

コチラが楽しげに「 七つの海で女を泣かせた 」駆逐艦乗りだった当時の昔話をするのに対し、

生粋の歩兵である「 U爺 」は、

ほとんど戦争について語ることがないままこの世を去る。






空と海と女の間で生きた「 T爺 」と、

泥と血と躯の中で生きた「 U爺」のそれぞれの戦争は、相当異なるものだった様だ。






肉体的には両名ともに恵まれてはいなかったけれど、

陸のU爺が鍛え上げられた針金みたいな若者だったのに対して、

海のT爺は貧弱を絵に描いたような眉目秀麗な若者だった。




T爺が「 人生これスキだらけ 」であるのに対し、

U爺はまるでスキのない人だ。

欠点が見当たらない。

だらしのないところがない。

人生丸々「 立派 」なんである。





死ぬ時も当然のように立派に死んだ。





激痛を伴う大腸ガンと戦いながら、

最後まで「 痛い苦しい 」の一言も漏らすことなく、

「 男ってなあこうだぜ 」ってなあ死に様を見せてくれた。

「 死にたくない 」の一言もなく潔く逝った。

「 死にたい 」なんて泣き言もなかった。

20代で戒名を持っていた人間の凄味を、子孫にまざまざと見せつけて死んだ。

もう20年近く前の話である。




T爺も、U爺同様、すでにこの世の人ではないが、

その最後はナカナカに傑作で、

「 しゅうりょー!しゅうりょー! 」と叫びながら自らタオルを投げた。

肺機能の低下で息苦しさは相当のものだったのだろう。

「 もう苦しいのは嫌なんじゃ 」というセキララな叫びだった。

死因は老衰である。

らしい最後だ。

アルツハイマーでソコハシコにボケが廻ってきていたが、

明晰な頭脳と紳士ぶりを最後まで失わなかったのは大したものだと思う。







U爺が、武を重んじ書に通じた極めて日本的な両道の人であったのに対し、

T爺は、洋の要素の強い、「知」の人だった。仕立てのいい洋服がよく似合った。

U爺はわかりやすい。「 立派 」の一言で形容できる。

わけがわからねえのはT爺だ。多分に育ちが影響しているように思う。




U爺は、当時の日本人の多くがそうだったように、

がちがちの日本夫婦に大量生産された兄弟姉妹の1人である。

育ちは極めて「 まっとう 」だ。





これに反してT爺の育ちは複雑である。






2歳の時、かの関東大震災で実父を亡くしている。

一発目の地震で倒壊しかかった家の中に残されたT爺を救うべく、

T爺の父は家に駆け戻り、

次の余震で全壊した家屋のぺしゃんこになった。

梁の下敷きになりながら、救い出したT爺を妻に渡し、

「逃げろ」と叫び、

自分はそのまま火に焼かれて死んだ。

伊賀の百地三太夫の傍流であった「 家 」が、

金銭的に追い込まれていったのはこれが理由である。

一歳のT爺は、身重の母と2人、突如世間に投げ出された。




資産を売って命を繋ぐ。

家庭教師のバイトと三重県(伊賀)の奨学金、お袋さんの内職で家計をまわす。




虚弱体質だったT爺には、世間一般の男のように「 体が資本 」なんて豪語はできない。

「 身体が資本 」と言えないリアルの厳しさが、現代とは比較にならない時代である。

T爺はおそらく必死だったハズだ。

絶望的な肉体の弱さをカバーする道を真剣に模索したのだろう。




当時の俊英が集まる横浜高校(ほとんどはここから早稲田・慶応・同志社・中央へと進む)に進みながら、

学費の欠乏で進学を断念せざるを得なくなったT爺が、

衣食の保証された2つの進学可能な行き先のうち、

商船学校ではなく海軍士官学校への道を選んだ理由には、

肉体的な脆弱さが多分に影響している。

彼は海軍士官は務まる「知」はあったが、社会人を勤めあげる「体」がなかったからだ。




T爺は、相当「 カオ 」で得をした。

当時の写真をみると、

「 こりゃあ女がほっとかねえ 」ってツラである。

頬骨の出張ったU爺とは同じ民族かどうかも怪しい。




真っ白な軍服を着た23歳のT爺の写真が、今手元にある。

当時の日本人としては恐ろしく鼻筋が通っていて顎が小さい。

甘いマスクの典型である。

目には寂しげな影がある。

物語から出てきたような憂国の青年士官がそこにいる。

町行く人々が振り返り、

港々の娼婦達が先をあらそってT爺争奪戦を繰り広げたのも頷ける。

小遣いを渡したくなる気持ちがわかる。

T爺は、日陰の洋蘭みてえな容姿で相当に得をした。




「 喧嘩の時は3歳下の弟(後にゼロ・ファイターになる)を呼んだ 」という

へなちょこT爺にとって、

容姿は正に生命線だった。

知性はあるがどこか抜けているT爺は、

駆逐艦乗りだった時代なんども懲罰モノの失敗をしている。

「 戦闘中に寝ていた」なんてミスをして、殴らない上官はいない。

しかしT爺は一度も殴られずに終戦を迎えている。

「 可愛いすぎて殴れなかった 」というケースは、

海軍史を紐解いてもナカナカでてこないだろう。




戦後、T爺は闇市のブローカーとかをやりながら、

20年くらい苦労したあと、

会社を乗っ取って金持ちになり、

株にハマリ、

バブルで資産を大幅に減らし、

ボケて死んだ。




こうやって書くと哀れに見えるが、

ラスト25年くらいは会社の金で海外旅行に行きまくり、

週に4回はゴルフに行くという遊蕩をカマしていたので全然不幸ではない。

むしろやりたい放題である。

U爺が晩年の楽しみなく死んだことを考えれば、

T爺は「 死ぬほど 」老後を謳歌して死んだワケだ。





小生の体つきは、この2人の爺によく似ている。

両方の性質が綯交ぜになっている。

気を抜くとT爺ばりに身体機能が低下する。

気合を入れるとU爺ばりに頑健になる。

性格はT爺に酷似しているが明晰な頭脳はない。

土壇場の根性はU爺がくれたものだ。





面白い爺共であった。

今は亡き2人の男の生涯を振り返る時、いつも思う。

頑張ったなあ。ってね。

ふたりともよく頑張った。

一生懸命生きた。

えらいと思う。

えらいと思うぜ。爺さん。




T爺とした約束。

「 俺は漫画家になるぜ 」




U爺が教えずに逝ってしまった剣。

しょうがないので親父に教わる。

ズイブン出送れちまったが、最近木刀を振っている。

U爺の死に様を思い出しながら。



ブンブンブン。



「何で半身なんだ」

「手首を絞れ」

「刃スジを立てろ」




親父殿、なかなかに五月蝿い。

小生は土台が柔道である。

打撃を前提にした柔道が体さばきの基本になっている。

半身じゃないと落ち着かないし、体重移動がうまくいかない。




「ばかやろう。右肩が出すぎだ。ひっこめろ。」




このまま親父に撃ちかかったら野郎は泡ふくだろうなあ。

とか思いながらボッケンをふる。



バキバキになっていく両腕。

見た目は物凄いことになっている。

戦車の装甲もぶち抜けるんじゃねえの?ってゆー針金の束みてえな腕である。



いつかあの世で会ったなら、及ばずながらU爺に勝負を挑んでみようと思う。

いつかあの世で会ったなら、へなちょこT爺を守ってやらねばと思う。




いつか2人に会った時、笑われないよう生きていかねばと思う今日。




2人がくれた平和にどっぷりと身を浸しつつ、チョコレートを齧る。




甘い。






爺さん、ありがとう。






お蔭で日本は平和だぜ。
by 201V1 | 2004-07-30 21:01 | カテゴライズ前・生ログ
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