人気ブログランキング | 話題のタグを見る
和魂要塞ダイジェスト
えー次のようなコメントが鍵つきで書きこまれました。
原文のママではマズイので、一部改訂して転載しまする。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ぶっちゃけ貴殿の職業や背景に興味があったダニ。
あ、これは鍵コメントダニ。で、心底教えて頂きたいダニ。

現状の生活のあからさまな状況。漫画家志望というのは分かったダニ。

どうやって今があり、どのように現状を生き、そして将来の展望、というと
大げさダニね。

設計図というか。ダニ。

すまん。まるでこれでは興味本位の週刊誌と変わらんダニね。

でも知りたかったダニよ。

異質さと馬力の背景が知りたかったダニ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



えー、一応念のため言っておくが、

自作自演じゃないからね!爆




そーいえばですね、

当該ブログにおいて、管理人の個人史やら何やらが語られたのって、

ごくごく初期の頃の話であって、

5月からの閲覧者以外にゃまったく人物像がわかずじまいになってるはずです。笑




「 5月の記事読んで♪ 」つってもうちの記事は膨大な量であり、しかも無駄に重い。

迷宮みたいな構造のブログなので大体にして記事がみつからねえ。

とゆーわけで、

ダイジェスト和魂要塞、ぶち上げてみまする。



まーなんというか、これで御容赦願いたい。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



えーまずですね、血統ですが、詳しくはコチラでどーぞ。

血系





生まれは東京ですが生家は千葉になります。

物心つくまえに川崎にある母方の実家に家族で転がり込んだ為、

事実上の記憶のスタート地点は東横線の新丸子から始まる感じ。

渋谷と横浜の間の駅ですね。

西口商店街は今よりもうすこし賑わってました。





この家はカナリ特殊な環境で、

母方の祖父母、母の弟夫婦、うちの両親の三世帯が同居しているという一軒家でした。

そこで小生は初孫・初甥・長男という「 甘やかされ放題 」の幼年期を送ります。

3年半遅れて次男坊が生まれるまでは完全な天下です。笑

大人6人に愛を注がれて育ってます。

何不自由なく我侭放題で育った感が否めません。

嘆きを知らない子供でした。




犬と猫がともだち。

近所の子供とはあんまし遊びませんでしたね。

終日犬と一緒に庭か犬小屋いた感じです。




未だに自分は半分くらい犬なんじゃないかと思います。

彼らといるとね、すんごく安心する自分がいる。

通じてるのが実感できる。

「 なんだい、暖かいじゃないか 」ってね。

動物との付き合い方は犬に教わりました。

おかげでね、後年ライオンやハイエナやインパラやシロサイとも仲良くなれた。

彼らはね、複雑な思考ができないぶん、ずっと多くのことを感じてる。

こっちの意図を見透かす力に長けてる。

だからね、生き物と接する時、大事なのは「 すきよ 」って伝えることです。

「 ともだちになって 」って。

小生は、そうやって近づく方法を、犬に教わりました。





生まれたときから一緒だった犬が死んだ時、小生は狂ったように泣き暮らしたといいます。

母曰く、遠吠えみたいに泣いてたそうです。

何日も、気が狂ったみたいに遠吠えみたく泣いていたって。






この経験を境に、小生は「 喪失による悲しみ 」という奴に鈍感になります。

ともだちを失い、狂う一歩手前まで喪失感に苦しんだ体験がそうさせたのだと思います。

それからね、ずっとストッパーがかかってる。

悲しい気持ちを感じてしまえば、自分がどうにかなるのがわかるから。

一族の誰かがなくなるとき、一族の誰もが悲嘆にくれます。

そういうとき、ともだちの死がくれた特性をありがたく思う。

僕はともだちのお蔭で、長男としての役目を果たせる。

悲しみに暮れることなく、いつもしっかりと、死者を送り出す準備をできる。






うちの一族ってなあ少々特殊で、

二次大戦一つをとっても世間のそれとは大分に捉え方が違う。

祖父は両方とも従軍しているが、赤紙に従って戦争にいった人々ではなかった。

自ら職業軍人として、大東亜戦争に参加し、将校として働いている。

祖父たちにとって、あの戦争は強いられたものではなく、歴史の必然だったのだ。





祖父も父も僕も、あの戦争をそういう風に捉えている。





単純な侵略戦争と断じるには、あの戦争が残した遺産はあまりに大きすぎる。

事実、あの戦争でアジアの地図は大幅に変わった。

多くの国が、西欧列強の植民地から独立国家への道を歩むキッカケをつくったのが、

大東亜戦争だった。





聖戦と呼ぶには、あまりにも人倫から逸脱した暴力が振るわれた戦争だった。

当時の日本軍の捕虜への不当な扱いは筆舌に尽くしがたい暴虐がある。

祖父が言い遺したように、当時の日本軍は捕虜の虐殺を日常的に繰り返していた。

大陸では、あらゆる侮辱と陵辱を現地の人々は強いられた。

南京大虐殺が「 なかった 」のは周知の事実ではある。

けれども虐殺はあった。

戦争は、人の狂気を解放する。

日本軍は、確かに暴虐の限りを尽くした。

ゴーマニズムであの戦争を論じるのは片手落ち以外の何物でもない。







僕が最初に覚えた歌は、祖母から教わった日露戦争の歌である。







いっちれつれんぱん破裂してー♪

にちろーせんそーとなりにけりー♪

さっさと逃げるはロシアの兵♪

死ぬまで尽くすは日本の兵♪




僕が受け継いでいる記憶は、民族の記憶でもある。

大正生まれの祖父母の家で育った僕にとって、

関東大震災も二次大戦も昔話ではすまされない。

事実、20世紀の出来事は、一族に大きな転機を何度も与えた。

出来事の全てが、一族の歴史であり記憶である。

20世紀がそのまま自分の個人史になっている。




核家族化の進んだ今日の日本人には、

「 一族の記憶 」という感覚が極めて捉え難いと思う。

けれども多くの国では、人々は世代を超えた「 一族の記憶 」のなかに生きている。

日中・日韓の間にあるギャップを生むのは、この「 一族の記憶 」の有無にある。

僕が恐れるのは、「 民族の記憶 」を失った国家の未来だ。

断絶を繋ぐリングを紡ぐのは、物語かきの仕事である。

そう考えながら、筆をとる。







父と母もまた、歴史の必然に従い、世界の選択の中で青春を送った人間である。

70年代。

ベトナム戦争が世界同時革命をリンクした一瞬に、夢をかけた世代である。

革命の実現性を信じるものと、信じられないものたちが、共に戦い、袂を分かった時代である。

結果的に暴力闘争へと加速度的に変容していった運動は、内ゲバを経て急速に衰退する。

あの一瞬の輝きを、お祭りと断じるのはたやすい。

けれども当時の学生は、確かに世界に挑んだのだと、僕は感じている。

僕は共産主義を信じない。

けれども日本の資本主義も信じない。

どっちもね、まともじゃないぜ。





弟が生まれて少したった頃、

手狭になってきた母の実家を出て、

すぐ近くのマンションに引っ越した。

すごく奇妙な空間だった。

小学校4年生が終わるまで、僕は両親と弟とこの家で暮らす。

でもね、学校から帰ると、いつも友達が先にこの家で遊んでいた。






同級生だけじゃなく、見たこともない上級生まで何故か我が家で遊んでた。

男の子も、女の子もいた。

皆で外でドッジボールをやったりママゴトをして、毎日陽が暮れる。

子供たちが道路で遊ぶ時、母がいつも車が来ないか見てくれた。







母ほど、全力で子育てをやった人間を、僕はしらない。

父ほど、子供とよく遊ぶ人間を、僕は知らない。

2人は最高の父と母だったと思う。

倫理は母が教えてくれた。

技術は父が教えてくれた。





うちの教育方針は単純明快である。

「 手足がもげても弱者を守れ 」である。

これだけだ。

部屋を散らかそうが、服を汚そうが、そーゆー瑣末なことで叱られたことはない。

ただ、誰かを無神経に傷つけたり、悪意を持って誹謗中傷したとき、

それが発覚した時の折檻は半端ではなかった。

僕は母に窓から投げられたことがある。






かつて健脚2日コースを半日で登りきる登山馬鹿だった父は、

都会にいる頃から、絵の書き方や粘土の造り方を教えてくれたけれど、

10歳で伊豆に越してから、山で生きる技術を教えてくれた。

刃物の使い方や研ぎ方、強風の中で火を起こす方法。

中学くらいからは、世界史や日本史の講義もやってくれた。

ろくに学校の授業を聞かなかった小生が、それほど無知でないのは父の講義の賜物である。





小学校から高校まで、興味があったのは数学と生物だけだった。

この二つだけは、「 教科書を読んでいて 」楽しかったのだ。

授業はほとんど受けていない。

数学と生物以外の教科書は、焚き火にしてしまったり、なくしてしまったりしてハナからない。

教師の話はどれも一緒でつまらなかった。

「 なにがあったか 」なんてのは、どーでもよかった。

僕が興味があるのは、「 何故彼がそうせざるを得なかったか 」であって、

歴史の教科書のお呼びじゃなかったんである。

父の独善と偏見に満ちた講談のほうがよっぽどおもしろかった。






和魂要塞のBGMは、父と母の時代の歌である。

ワルシャワ労働歌。

世界に挑むものたちの歌だ。

僕は、この歌がすき。

愛に満ちているから。

僕もこの歌と共に、世界に挑んでみようと思う。

祖父や父や母のように。



















幸せな幼年時代だったと思う。

カタギの家でノホホンと育ったわけだ。

10歳までは都会で、

10歳から18歳までは山の中で。



村の年長者にくっついて、

山に山芋を掘りに行ったり、川に魚を突きに行ったりして、

日々が過ぎていった。


飼ってた犬が猪や狸を仕留めたり、鹿を追い出したり、都会では味わえない暮らしだった。



戸袋に巣を造り、子供を生んだ梟。

雛が生まれて24日目、朝起きて戸袋を覗く。

鎌首を上げる青大将。



いろんなことがあった。

あったなあ。

















昔はね、夢を職業だと思っていた。

人並みに、なにかになりたかった時代もある。






中学の頃、僕は騎手を目指した。





中学二年の夏。

ガキの頃から「 獣医になるんだ 」って喚く息子に、

父は「 どんなもんか見て来い 」って、友人のいる北海道のサラブレッド牧場に僕を送る。

馬に乗る僕。

昔から度胸だけはいい。

乗馬は度胸だ。

メキメキうまくなる。

夢が騎手に転じた。





それからの1年。

成長を止める為に飯を食わずに筋トレする。

50倍だか100倍だかの倍率を潜り抜けて辿りついた騎手候補生最終選考。

最後の残った面子のなかで、身体能力だけみれば、

僕は受かっても落ちてもおかしくない際どい順位にいた。

最終選考に残った15名のうち、残るのはその半分である。

決め手になったのは、骨の末端のカルシウム沈着度だった。

このパーセンテージが将来の身長を決定する。

皆が0パーセントのなか、僕だけ以上に数値が高かった。

当時158センチだった僕は、そのとき既に理想身長より3センチばかり大きかった。

30パーセントという数字は、僕が170センチまで伸びることを示唆していた。

問答無用で落選し、後日「 次回受けられても無理です 」との返事を貰った。

遺伝的に「 ダメだし 」されたわけである。笑




こーゆー体験を経て、僕は半ばやけくそで高校に進学する。

そして血達磨の学園ライフがスタートするワケである。笑





なぜこんな馬鹿をやったのか、話はカンタンである。

ムカついたからだ。

戦った理由は父や母と一緒である。

「 納得いかない 」って一事で、喧嘩の理由は片がつく。




高校を卒業する頃、僕は物凄い人間嫌いになっていた。

誰も信じちゃいなかったし、

世界も何もかもを呪っていた。

この国を捨てるつもりで、2度と帰ったこないつもりで、アフリカに渡った。

18の春だった。

2年間、アフリカとインドを放浪し続けた。





僕は、アフリカに行く前、たったひとつだけ、呪い続けた世界に希望を持っていた。

それは、「 不変の倫理がある 」って幻想である。

カンタンにいえば、

それは仁・義・礼・智・誠・孝・勇・忠の封建社会の倫理のカナメ・武士道である。

18歳の僕は、武士道が世界に通用する「 不変の倫理 」と信じていた。

甘かったんである。





打ちのめされて帰国した二十歳の春。

僕はそれから丸四年間、伊豆の実家に篭ることになる。

最初の2年間、出版を目指して旅行記を書きながら過ごした。

出来上がった旅行記は、怨嗟と憎悪のカタマリみたいな呪詛の文章で、

とても世間に発表できるような類の文章じゃなかった。

それから更に2年、僕は15歳の自分がそうしてもらったように、

少年達に志を与える漫画を書くために嘔吐しながら原稿用紙と戦った。






この4年間は、これまでの人生でもっとも辛かった時期である。

崩壊した自己同一性を取り戻す作業と、創作を並列して行なわねばならなかった。

アフリカでコテンパンにされた自我をもう一度構成するのに丸4年かかった計算になる。

寝ても覚めても、世界と人間について考えていた。

描けなくて、何度も吐いた。

気も狂いかけた。

鬱に襲われるようになった。

そうやって、僕はなんとかもう一度、自分を取り戻して世に問うための準備をしていた。

膨大な量の本を読み、最も深く考え悩み苦しんだ時期がこの4年間である。






24歳になった僕には、確かな真実があった。

それは、人が皆同じところに向かって進んでいるという真実である。

この確信は今も揺るがない。

この確信をもって僕は上京する。

2年間、馬車馬みたいに働いた。





そして2004年の春、僕はもう一度腰を据えて漫画を描くために、帰郷する。

ブログを始め、また変わる。





書くことによって自分を再確認し、

かつて恋した人に会い、

旧友に支えられ、

誇れる新たな友と邂逅し、

終生の伴侶を得た。




そのどれもがそのつど僕を変えてくれた。





わずか3ヶ月で、僕は今までの人生に匹敵するものを得たと思う。




これからを、語るとき。

いつか過去を語るとき。

この3ヶ月は僕の中でとても大きなものを占めるだろう。

わずかな期間で、ひとが何度も生まれ変わる証明が行なわれた時間である。




以前ジキュッパ殿の誕生日にリンクして、自身の将来設計を公表したことがあるけれど、

今もそれは同じである。





漫画をやる。

切れが無くなったらやめる。

刀鍛冶になる。

いろいろ余計なことをやる。

嫁さんと幸せになる。

である。






瑣末なことのない、文句のねえ人生である。















僕は歌い続けよう。







ノドが破れても。








人間賛歌を。
by 201V1 | 2004-08-18 14:54 | カテゴライズ前・生ログ
<< 最近、小生が道教にハマっているわけ。 このブログについて >>